恩師との「卒業後のご縁」あれこれ       辻 淳二


 「恩師」という特集のテーマが高嶋さんから来て、しばし考えた。常識的には、小、中、高の担当の先生、大学の卒論の指導教官となるのだが、あらためて振り返ってみて、自分から密に接するタイプではなかったし、恩師の方からも多分「あまり手が掛からない、ノーマークでいい生徒」という感じだったろうしということで、在学時には"私ならでは"の特段の話題を思い当たらない。一方で私の場合、中学、高校は私立の成蹊学園という割りに家族的な校風のところに居たので、その文化の延長でか、中/高の恩師にはそれぞれに卒業後のご縁を頂いていて、そこには "私固有"の部分があり、「師との巡り合わせへの感謝」も結構深いものを感じている。そう思い当たって、表記の切り口でこの稿を書くことにした。

 中学のH先生: "気持ちの若さ"では今でも負けそう

 中学時の担当はH先生、いわゆる"ゼロ戦の生き残りパイロット"で、基本的に明るく気持ちの若い方で、男女組(当時の成蹊は女生徒の方がずっと少なく、共学のクラスは2つしかなかった)の我々生徒の信望を程よく集めておられた。当然ながら、男子クラスからは羨ましがられる共学クラスのことだから、いま思えば"他愛ないじゃれ合い"に過ぎない波風はほどほどに立ってはいたが、3年間の最大の出来事と言えば青梅線の沿線から遠路通学していた可愛かった女子の同級生が病に倒れ、3年在学時に亡くなってしまったことではなかったろうか。

 パソコンの教育への活用での見事なフットワークに感嘆した

 卒業後、H先生とは時折の同窓会でお会いする等の常識的なお付き合いを続けて、20年近くが過ぎた。そんな流れがちょっと変わったのが、同じく弟子で当会のメンバーでもあるA君の仲介だったろうか、確か両国のちゃんこ料理屋で懇談した(ソフトウエア・パッケージ業界の先達・Kさんも同席)時からだった。その場で、当時はパソコンが徐々に世の中の注目を集め始めていた頃だったのだが、先生から「パソコンを買いたいのだ」という問い掛けが出されたのだった。当時のパソコンは、まだ誰でも使えるには程遠いものだったが、先生は気の若い好奇心旺盛の人だし、うまい具合に数学の先生、これなら大丈夫と判断して「どうぞ、おやり下さい」とお勧めしたのだった。その後しばらく経って、実際にお買いになって、一部の有志の生徒を対象に"パソコン教室"的な場も作られたと伺って、学校の先生のところをお訪ねした。するとH先生は、至って楽しげに自学で習得したBASICで作った数学の問題を解くプログラムを示され、極めて順調にパソコンをものにして来られていることが分かって、楽しいひとときを過ごすことができた。

 親子2代に渡ってご指導を頂く幸運に恵まれた

 その後まもなく、このご縁が第2幕へと広がった。先生のご子息がデパート業界に居られて、今で言う情報戦略を本社で担当しておられた。そこで、分社化していたシステム子会社がマンネリ化して付加価値を生みにくくなっているのを心配して改革提案をされた結果としてだろう、「では、お前が行って立て直せ」という感じの人事異動で同子会社の社長に着任されることになったのだ。当時、ご子息は40歳前だった筈で、親会社のデパートとしても数少ない抜擢人事だったのだと思う。ご子息とはその前にお目には掛かっていたのだが、ご就任に先立って当方にもお訪ね頂いて、その頃に情報サービス業界のリーダー的位置の会社で経営計画を担当していた上記のA君を紹介するなど、入り口での小さな側面支援をさせて頂いた。その後、ご子息はもともと学生時の専攻も経営学科で"やりたかった役割"ということもあったようで、見事にシステム子会社の組織文化を変え、業界内でも注目される会社にリフォームする「中興の役割」を見事に果たされた。その間も折々にお会いする機会はあって、ご自身の情報サービス業経営のお話を当研究会にて講演して頂くというご縁も頂いている。そしてその結果、私はH先生を囲むクラス会で「この話をできるのは、多分私だけだろう」と言える話ができる幸運に恵まれている。その話とは、「私は、先生に親子2代に渡ってご指導を頂いている」ということである。通常、こういうと多くの人は「私と私の子供がH先生の教え子なんだ」と想像されるだろう。そうでなく、私が先生だけでなくご子息にもご指導頂いているという"親子2代"なのだから、これはそうそうはない筈なのである。

 なお、H先生は最近80歳をむかえられ、この秋にクラス会もあったが、まだ現役の仕事も持たれてご健在である。

 高校のB先生: "茫洋たる包容力"が懐かしい

 次に、高校の恩師のB先生の話に進もう。B先生は、茫洋として、高校の先生とは思えないスケールを感じさせる人だった。卒業後のご縁の中で分かったのだが、成蹊学園への就職の呼びかけを受けた時に、ご自身は「大学の方へ」という話と思って受けたら高校だったということだったらしい。西洋史のご担当で、分厚い「西洋史」の本も出しておられた。我々は、西洋史で受験する場合はその本を参考書にもしていたのだが、授業は古代から始まってあちこちに脱線するので、一年が終わっても近代の入り口くらいまでしか届かず、現代史は自習するしかなかった(例年のことなので、我々も仄聞していて若干の自衛策を講じていたから、大きなハンデにはならなかったと記憶)。そういう先生だから、お話好きだし、ご自宅の近くに住む生徒が多かったこともあったろう、まだ在学中から正月休みに自宅に伺うことが常態になっていて、私もその中の一人だった。そして、その延長線上で卒業後も折々にご自宅に伺うことは、あまり屈託なく続けさせて貰っていた。その流れの中で、B先生が文芸春秋社から出版された『大世界史』シリーズ(第9巻『絹の道と香料の島』)を上梓されたお祝いだったと思うが、先生の3〜4回担任をされた何代かに渡る教え子が集まる席に私もお誘い頂いて、できたばかりのご著書を頂いた。先生の字は、生徒の頃は象形文字と言っていた程にパターン的かつ個性的なのだが、その字で「献呈」とサインが書かれていて、いま手元に残っている唯一の肉筆になっている。

 人生の転機の心を支えて貰った

 それがやや"私固有"の流れに入ったのは、私がNECに就職して10年経って、情報サービス業界への転出を具体的に考え始めた時だった。これについては、本ホームページの別稿(転進、私の場合の成功要件)にも書いているが、自分では「転進」の方向で腹を決めた後、念のために3人の"人生の師/兄貴/友"と思っていた方々にご相談に伺っている。その一人がB先生だった。その時、先生は「君がそうしたいと思うなら、やったらいい」と一言仰っただけで、その話は10分も掛からないで終わってしまって、後は他の近況交換をしたのだったが、その時の訪問が"確信犯的に転進へと進む"上の心の支えになったことは間違いない。

 対話を通して学ぶことが多かった

 その後も、数年間隔くらいでご自宅へ伺うご縁は続いて、その時期に伺った話として鮮明に残っているのは、多分1980年前後のことだったと思うが、日本からの海外渡航者が増え始めて、先生もご夫婦で出かけられるようになったお土産話だった。B先生は、西洋史でも特に英国/アイルランド史がご専門で、その関連領域のヴァイキングの話では日本の第一人者だったらしく、テレビでそういうテーマの番組が作られるとゲストで出られる程の人だった。その先生から、「北欧からイギリスへ飛ぶ飛行機から、かってヴァイキングが手漕ぎの舟で疾駆したバルト海を上から眺めて、感慨無量だった」話を聴いたのだ。その、何とも素直な感動の言葉を目の前にして、「日本で有数の研究者でありながら、現場を見たのは研究者としては壮年期を過ぎるこの時が初めてだったのか」と強い"衝撃に近い感動"を受けたのを今も忘れることができない。その後、何回か"現地トレース"を兼ねた海外旅行はなさったと記憶しているが、今あらためて「晩年に近かったとしても、行くことができて本当に良かった」と痛感させられている。

 身につまされた"入院前の秘話"

 B先生は、我々が卒業してしばらくして成蹊大学の教授になられたのだが、まだ現役でおられる時に体調をこわされて入院され、程なく亡くなられた。まだ、70歳前ではなかっただろうか。その後も、時にご自宅に伺っていて奥様とも気安くさせて頂いていたこともあって、年末などにご挨拶に伺うことを細く継続していたが、同行してくれていた友人が勤務先の札幌支店長で赴任し、その頃に私自身にもややゆとりのない状況があったりもして、途絶えさせたまま、今に至っている。その間の奥様との会話で印象的なのは、亡くなられた年の正月のテレビ番組に先生が出られた映像を九州でご覧になった親戚の方が「息遣いがおかしいから、診てもらった方がいい」と電話をかけてこられたという話だった。その時点では、先生には確かな自覚症状はなかったのではなかったろうか。その年の内に入院して亡くなられたのだから、その忠告は当たっていたということだろう。「テレビで見ていて、分かった」のもすごいと思いつつ、「気付きがもう少し早かったら」との残念さがご家族には強かっただろうと身につまされたことだった。

 恩師はやはり大きな存在だった!

 そのB先生に関して、何度も思いながら果たせないで今に至っていることがある。それは、先生の奥様は成蹊に赴任される前に教えておられた都内の名門の女子高の教え子だということに関してである。茫洋として小さなことにこだわらない話ばかりしていて、女子高生の心に深く目配りしていたようには見えない先生が「いかにして奥様の心を捉えたのかをいつか当事者から聞きたい」との思いが、今もって満たされていないのである。気楽に問い掛けて、うまく懐に入れそうに思えた機会も何回かはあった。でも、聞けなかった。それは、やはり「師弟は、いつまで経っても師弟」ということの、私にとっての象徴だったのかも知れない。「2001.11.19」


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