「2001年を振り返る」        新田 謙治郎


 年の瀬に1年を振り返ってみると、今年もいろいろなことに出会ったなあという感慨がある。その中でもっとも強烈だったのは、4月と7月に訪問した中国の印象だ。ここ3,4ヶ月の内に急激に中国脅威論が新聞、雑誌で取り上げられるようになったが、私が出張した頃は未だあまりそのことが話題になっていなかった気がする。それだけに、私が受けたショックと刺激は大きかった。そのことに焦点を絞って記して見たい。

 一口に中国と言っても、広大な中国は地域により風俗、習慣、風景、言葉、食べ物などが異なり、纏めて中国を表現する難しさを感じる。従ってここでは、私が訪問した土地の印象を感じたままに記してみょうと思う。

 まず4月に深セン、東莞の工場群を訪問した。この地は香港と広東に挟まれた工業地帯だ。15年前に私の父が「死ぬ前に桂林の山々を見たい」というので両親と家内と一緒に桂林を訪れ、その帰りに広東から香港まで汽車で旅をした。その時の車窓から見る東莞、深センの風景は、いわば江戸時代の農村風景を眺めているようで、広い田畑をすげ笠をかぶった農夫が水牛を引いて耕していた。人工の建物は殆ど目に入らなかった。

 ところが、この度訪問してみると昔の面影は全く消えていた。特に深センは経済特別区に指定されて以来、工商業が栄にさかえ、中心部はさながら新宿副都心が50~60倍の広さで聳えている印象だった。道路は100メートルも幅があろうか。中央の広い分離帯には手入れの行き届いた花や灌木が植えられ、その両側がそれぞれ4車線の車道、さらにその外側に花を植え込んだ側帯があり、その外は自転車道路、さらに歩道と続いて、その両側は公園風の植え込みになっている。

 50〜60階建のビル郡はその外側に林立している。これが、車で20〜30分走っても続いているのだから驚きだ。花木の手入れの良さも人海戦術とのこと。

 惜しむらくは、両側にあるビル群が各自勝手に建てられたらしく、形も色もバラバラで統一感がない。1つのビルは1年で建つらしく、その代わり粗製濫造だと聞いた。日系企業の現地法人の総経理をやっている男が28Fに住んでいるが、嵐の時、出窓が窓枠ごとすっ飛ばされたという恐ろしい話を聞いた。

 深センと東莞では、3つの工場を見学した。最も驚いたのは、携帯電話やリモコン向けの電子部品(スイッチやコネクターなど)工場だった。17才から20才位の女性がずらりと700人ほど並び、それが小指の爪の半分にもならない小さなスイッチを手作業で作っている。工場は薄暗い。内蒙古あたりから出稼ぎに来たこの人達は、電球のないところで生活していたため、明るい蛍光灯をつけると眩しくて仕事が出来ないと言う。視力は3.0位あるらしい。入社3ヶ月以内はピンク色の帽子、それ以上は青色、20人に一人くらい黒い帽子の女性がいて、これがグループ・リーダだと聞いた。 

 ちょうど昼休みのベルが鳴った時、この黒帽子の回りにいくつもの輪が出来て、そこで何やらリーダが訓辞を垂れているらしい。10分間も続いたろうか。この統制のとれた動きを見て、もはや日本の製造業はとても太刀打ち出来ないと実感した。因みに彼女たちの月給は7千円から1万円だそうで、それでも寮生活(8人部屋)をしながら国へ仕送りをしているらしい。給料に不満の人は止めて貰ってもいくらでも予備軍がいるから、人件費の高騰とは無縁だそうだ。

 7月には、「中国IT市場調査団」の一員として北京、広東、上海に出張した。DoCoMo の大星会長が団長だったせいもあって、訪問先は China Telecom やChina Mobile が中心で、他は各地の新興ハイテク地帯を訪れた。中国のシリコンバレーの異名をとる北京の中関村を訪問したときには、先の深セン、東莞の工場労働者とは違って知識産業に携わる人達の熱気に圧倒された。各種ベンチャー、ソフト産業、研究開発センターなどが乱立していた。

 それらの生い立ちには二つのパターンがあると見た。その一つはアメリカの大学院を卒業した人を呼び戻すための中国政府の政策に依るもので、もう一つは外資、特にアメリカの資本による起業である。即ち典型的なのがIBM、マイクロソフト、インテル、モトローラに見られるように、アメリカの大学院を卒業してアメリカのビジネスを経験した人達を誘って帰国させ、社長として高給で雇い、さらにその人脈を活用して北京大学や精華大学の大学院生や教授を引き込んで研究開発センターなどを開かせている。その前提には世界でも最も優れた頭脳を持つ中国人をR&Dに活用しようという発想に基づくもので、日本人による中国の安い労働力を活用しようという発想とは根本的に異なっている。

 私が駐米中のときでも、中国人でアメリカの大学院に留学している人は日本人の5倍はいたし、日本人と違って卒業後も殆どの人がアメリカの企業で働いていたから、この人達が続々と中国に帰り、次々と起業していることを考えると、工業社会でのみならずこれからの知識社会でも日本は置いてきぼりを食うのではないかと危惧せざるを得ない。

 広東の China Mobile(広州移動通信公司)という半官半民のような会社を訪問したときの事である。社長のプレゼンテーションのなかで「人事政策にもっとも力を入れている」と言って10の政策を上げたが、その中に「退職後も面倒をみる」「生涯教育」と言う言葉があったので、私が質問した。「そのような施策はアメリカの Business Practice には無い。強いて言えば日本の終身雇用に近い気がする。一方、この変化の激しい市場で会社が競争力を高めるのに、終身雇用が足枷になっていることも事実である。しかるに、どうしてこのような人事政策を採るのか?」

 答えは明確だった。

1) 会社の成長と社員の成長は一致する。だから教育に力を入れる。

2) 仕事の出来る人に手厚い年金や奨励金を用意しているのであって、目標が達成できない人からはその権利を取り上げる。

3) 社員とは1年契約で、仕事が出来なかった人の下から5%は再契約をしない。

 これは、日本より明らかに厳しい競争社会であって、日本の方が社会主義国だと思った。この国と競争して人を育てるのは容易ではないと痛感する。

 上海訪問時に上海から北50kmの所にある蘇州とさらに50km北西の無錫のハイテク産業開発区を訊ねた。蘇州には26社、無錫には40社の日系企業が進出していた。

 蘇州ではエプソンの工場を見学したが何と従業員は7000人、携帯用の液晶パネルを年間4500万枚(世界の需要の10%)、水晶発振器を1億5000万個(世界の需要の3分の1)を1工場で生産しているというから大変なものだ。このような大規模な工場が中国シフトを起こしているのかと空恐ろしい気がした。

 無錫では市による One Stop Service Center がご自慢で、進出企業のために起業設立、営業ライセンス、税申告などのお役所仕事を1つの場所で纏めて処理していた。「日本のお役所よりはるかに処理が早いと思いますよ。」と言われたのには二の句がつけなかった。

 何処の場所でも感じたのは、そのハングリー精神と熱気である。明らかに社会全体が上昇気流に乗っていることを感じる。DoCoMo の大星会長が団長だったので、iモードに成功した日本の実状を中国側も知りたくて、何処でも大歓迎だった。質問は真剣そのものだった。また私達のために日本からの通訳と現地調達の通訳と会わせて15人の通訳が動員されたが、これがすべて中国の若い人だった。日本人の通訳が一人もいなかったということは何とも淋しいことだった。これはある意味で中国は技術を含めた日本の良さを一所懸命吸収しているのに、日本は中国の優れたところを何も吸収していないことにも通じる。さらに現地で中国人が流暢な日本語でプレゼンテーションしてくれたところが2ヶ所あった。「21世紀は中国の時代」と言われる一端を見た気がした。他方、ホテル名や会社名、そして各会社の紹介パンフレットも中国語と英語で必ず併記しているところを見ると、英語に対する中国人の理解は日本よりはるかに高いと思われる。(何しろ、英語は小学校5年から必須らしい。)

 一体、これからの日本はどうやって生きてゆけるのかと考え込んでしまう。製造業の中国シフトは止められない趨勢だし、とにかく中国と共存の道を探して行かなければならないのは確かである。

1.より付加価値の高い産業にシフトする。

2.個別受注製品の製造は死守する。

3.市場に近いことが最も意味のある生産に注力する。

4.自動化や高度な生産方式を生み出し勤勉な労働力に対抗する。

[最近、花王の和歌山工場と富士フィルムの南足柄工場を見学する機会を得た。見事なまでの製品のリユース、リサイクルを含めた完全自動化(無人運転)工場に感銘を受けた。ここまで徹底すれば安い中国の労働市場も恐くないと頼もしく思った。]

5.労働市場を製造業からサービス産業にシフトさせる。

6.中国のWTOに加入をきっかけに中国事業の利益を持ち出せるから、資本投資により外貨を稼ぐ。

などは簡単に思いつくが、これらも厳しい国際競争の場である。

 それよりももっと深刻なのは、若い人から年寄りまで含めたハングリー精神の欠如である。携帯電話で仲間とのコミュニケーションに時間を費やし、フリーターでも困らずに生活できる。小、中学校の授業時間は益々短くなり、少子化に伴って勉強しなくても大学に入れる。しかも楽々と卒業させてくれる。高校生の基礎学力すらないと言われる大学生の読み物も週刊誌や漫画。こんな風潮の中で、どうしたら危機感やハングリー精神を身につけさせることが出来るのか。それが無理だとしても、せめて国際社会の中で、自分達の置かれている立場を正しく認識し、発奮興起させる方法はないものか。これは若い人達だけの問題ではなく、政府(文部科学省)、学校教育(先生)、家庭教育(父母)を含めた意識改革の問題だ。幕末や終戦後のようなどん底まで落ちる前に何とか再浮上のきっかけは掴めないのか、と考えさせられ続けた一年だった。

[2001年12月26日]

  特集企画 目次へ