「私の新人の頃」             新田 謙治郎                                                           

 私がNECに入社したのは昭和36年だから、もう41年も前のことになる。何故NECを選んだかと言えば、単純な動機しかなかったような気がする。つまり、(1)メーカで自分が作ったものを残したい、(2)当時コンピュータ・メーカとしてはNECがNO1だった、ということに尽きる。それは、大学で計測工学を選んだのが先輩から「これからはオートメーションの時代だ」と言われたからだったのと同じような、単純な動機だった。  

 ただし、入社後の配属面接ではこの動機にかなりしつこく拘ったのを記憶している。私の2年先輩がNECで日本で始めての「FORTRANコンパイラー」(NARC)を開発した人だったので、人事はその部署に配属するつもりだったらしい。しかし、私が目指したのは当時究極のオートメーションと言われたコンピュータによる生産制御(コンピュータ・コントロール)だったから、「そうゆう仕事がやりたくてNECに入ったのだ」と突っぱねた。

 その結果、「オートメーション部」という、NECとしては本流ではない部署に仮配属になった。(それは後になって解ったことで)無知とは恐ろしいことである。当時、コンピュータといえば皆同じだと思っていたのだが、NECには事務用コンピュータと科学技術用コンピュータはあっても、プロセス用コンピュータはなかったのだ。そのために、後になって散々苦労することになる。  

 新入社員教育が始まって1ヶ月も経たないある日、事業部長から突然の呼び出しがあった。「川崎製鉄の千葉製鉄所でお前がやりたいと言っていたような仕事があるらしい。住友商事から連絡があったので行って見ろ」という命令だ。住商の人に連れられて,NECからは私が一人で千葉製鉄所を訪問した。そこで待っていた川鉄の責任者が、計測出身の大先輩、大島真氏(掛長)だった。「分塊工場にある13の均熱炉に挿入したインゴット(鋼塊)の焼き上がり時間を予測して、そこにクレーンを持って行き、インゴットを取り出して圧延機に運ぶ指示を与えるシステムだ」と、大島さんは懇切丁寧に説明してくれた。不思議なことに、製鉄所は初めてなのにやろうとしていることは良く理解できた。大島さんの明快な説明のお陰だと思う。帰りに住商の人(田辺という千葉支店長)に「大島さんの説明で解った?」と聞かれたことを鮮明に憶えている。なにしろ1ヶ月前にNECに入社した新人だということはばれていたので、不安だったのは尤もだ。  

 帰社してからが大変だった。そんなコンピュータはNECには無いという。強いて言えばNEAC2205という小型事務用計算機があるから、それを転用してはどうかという。勿論プロセス入力(13の均熱炉の温度を読み込む)装置もないし、その結果をクレーンの運転席に表示する多点出力表示装置もない。2205を設計した先輩の北村さんに相談したら、紙テープ・パンチの入出力口を利用したらどうかという。その入出力条件を丁寧に教えてくれた。後は、自分で多点スキャナーと多点表示装置の設計である。有難いことに大学の卒論でおもちゃのリレー・コンピュータ(論理演算機)を設計していたので、論理設計も‘Switching Circuits and Logical Design という本で勉強しており、これが直接の知識として役立った。  

 ハードウェアの設計が終わり、工場に製造注文を出した夏頃に大島さんがNECに来られて、中央研究所のアナログコンピュータを使って、インゴットの焼き上がり予測の数式モデルのパラメータ選択のために、シュミレーションを行った。数式モデルは
           T=Aαt+Beβt
                              (T:炉内温度、t:焼き上がり予測時間、A,B、α、βがパラメータ)

というものだった。大島さんが何日通われたかは忘れてしまったが、「こんなところで良いだろう」と決まった後、それをプログラムとして組み込む役割が私に回って来た。
 

 プログラミングという作業はそれまで全く経験が無かった。そこで「プログラム課」に配属された同僚に頭を下げて、教えを乞いに行った。当時はブーストラップを理解しないとプログラミングが始まらず、この理解がなかなかの難物だった。当時はアッセンブラとて開発中で、プログラムはすべて機械語に頼らざるを得なかった。プログラミングの理屈はまもなく理解したが、それでも解らぬ振りをして「プログラム課」に通ったのには別の理由があった。つまり、今の家内であるるり子がプログラム課にいて、彼女の顔を見にゆくのが目的だったわけだ。そのうち上手く誘ってマックラケンの「電子計算機のプログラミング」という本を一緒に勉強し始めることに成功した。我ながら上手くやったものだ。

 2205はドラム式コンピュータで2,000語(1ワードは12桁の10進数)しかなく、確か1,700ステップぐらいがプログラムで、残りがデータだったと記憶している。とにかく均熱炉の温度を読み込んでは、数式モデルに当てはめて焼き上がり時間を計算し、それを表示しながら、焼き上がり時間の予測が収斂するまで13の均熱炉について計算を繰り返すというプログラムだった。  

 11月頃になってハードウェアの製造が完了してから、ハードの検査とソフトのデバッグを並行して一人でやるという作業に入った。ハードの検査のための簡単なプログラムは作った記憶があるが、この二つをどうして上手く切り分けて検査を完了させたのかの記憶が全くない。とにかく始めての正月休みもなく、1月15日にマシンと共に私も千葉製鉄所に移動となった。

 それからが大変だった。なにしろ、新しく設置する運転室は、空調の効いたきれいなNECのオフィスとは天と地の差があり、鉄粉が飛び交い、熱した鋼塊の反射熱でひどく熱くなる環境である。早速運転室の片隅にコンピュータをすっぷり被せるビニール小屋を作って貰い、それに専用のクーラをつけた。プリンターは人が触るので外に出さなければならないが、これがまた故障が多く、現用1台に予備2台をつけても間に合わないことが時々あった。プリンターを製造するデータ機器事業部に怒鳴り込んで緊急修理体制を敷いて貰ったが、このNEAC-WRITER は二度と使ってやるまいと心に誓ったのを記憶している。何とか半年がかりでユーザに引き渡すことが出来た。  

 製鉄所は24時間休まず運転しているため、私も何日か寝袋を持って運転室に寝たことがある。その時付き合ってくれた設置工事担当のNECシステム建設の先輩(井澤さん)が山男で、何と立ったまま壁にすがって寝ることのできる人で、とても尊敬してしまったのを記憶している。また、私を可哀想と思われたのか、大島さんからご自宅にお招き頂き、夕食と朝食を御馳走になった上、泊めて頂いたこともある。今となると懐かしい思い出ばかりである。  

 私としては入社後始めての経験だったが、1年の内にハードの設計からシュミレーション、そしてプログラミングから現地調整まで経験させて貰ったことは、後年いろいろな面で役に立った。有り難いと思っている。さらに嬉しいことに、このシステムを含めた分解工場の生産管理システムが大河内生産賞を受賞し、大島さんはその発表のためアメリカやヨーロッパに1ヶ月以上も出張されたという土産話を聞いた。

 さらに、20年の月日が過ぎて、ある時新日鐵の八幡製鉄所で、また別の時に住金の鹿島製鉄所でたまたまこのシステムが話題になった時、「あのシステムをメーカとして担当したのは新田さんですか」と言われ、それだけ有名なシステムだったのかと驚いたことを記憶している。また同じ頃、私の父が高炉の原料になる石灰石を産出する会社にいて、たまたま当時の川崎製鉄の西山社長とゴルフをした時に、「昔、愚息が千葉製鉄所でお世話のなりまして」とその話をしたら、西山社長もそのシステムの事は良く記憶されていて、「あれをやられたのはお宅の坊ちゃんでしたか」と言われ、オヤジとして大変鼻が高かったと話してくれた事を懐かしく想い出す。  

 ところで事務用コンピュータで苦労したので、私の次の年に入社してきた辻(淳二)さんと、「頭の回転はのろくても良いから、ぶっ壊れない頑丈なプロセス用コンピュータ(コンピューティング・ロガー)を作ろうよ」と言って、当時一番頑丈だと言われたパラメトロンを使った計算機を設計した。プリンターは、特別申請してレミントンのプリンターを使わせて貰った。このコンピューティング・ロガーは1号機が住金の小倉製鉄所に収まり、その後、昭和石油、新日鐵堺製鉄所、NKKの川ア製鉄所、同社鶴見製鉄所(2台)に納入され、特に最後の二台はMTBF16,000時間(2年間無故障)を達成し、客先から感謝された。この辺の話は、ひょっとして辻さんの「新人の頃」に出て来るかな?

2002年4月23日]

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