新人の頃の思い出
        高嶋 宏尚                             

図らずも東京へ  

自堕落極まりない学生生活を終え、社会人になったのはもう30年以上も前のことだ。学校に残るか、農事試験場のようなところで稲の生育状況などを眺めて暮らしたいと漠然と思っていたのだったが、図らずも東京に出て来ることになった。

大学へ行くために秋田から札幌へ出ただけで不夜城のような都会生活に驚いていたくらいだから、世界一人口が多い東京に行ったら果たしてどんなことになるのやら、東京の生活になじむことができるかの不安が先に立っていた。金融機関に就職したことについても、なかば攫われるようにしてのことだったので(自分の意思で就職先を選択したのは間違いないのだし、後悔したり、誰かに恨み言を云おうなどこれっぽっちも思ってはいないのだが、当時は売り手市場の時代でもあり連日の激しいアプローチに根負けし、「じゃあ行きます」と言ってしまった経緯があったのだ)、きちんと規律が守れるだろうか、札束を間違いなく数えられるだろうかなど、職場での生活についても見当がつかないことだらけであった。

ただ、選んだ職場が協同組合の組織であったことと、体力には自信があったので「まあ何とかなるだろう」との気持ちもあったことが、いわば心の支えだったと云えようか。青臭い理屈だが、「一人は万人のために、万人は一人のために」のスローガンがあるように、協同組合というのは単に資本の論理だけで動くことのない組織ではないかと思っていたし、人に対して暖かい組織ではないかなとも思っていたことは確かだった。  

ブロイラー状態の受け入れ研修  

4月1日に辞令交付式があった後は、武蔵小金井にある研修所に3週間カンヅメになり初期教育を施されたものだ。挨拶の仕方、電話の架けかた・受け方、数字の書き方、ソロバン、加算機、札勘など金融機関職員の基本技能に始まり、系統金融の仕組み、金融債の知識、先輩からの職場生活のレクチャーなどなど、朝から晩までカリキュラムがびっしり。外に出て体を動かす機会など殆んどない。加えて、メザシにたくあん、味噌汁とご飯のような食生活を送ってきた身にしてみれば、研修所の食事は、朝、昼、晩とも夢のようなご馳走の山。10時と3時にはお茶の時間まで設定されている。1週間経たないうちに3キロも体重が増え、体調がおかしくなってしまった。それ以後は、ひたすら食べ過ぎないよう、体重を元通りにすることに腐心していたものだった。

当時、新人には勤務地だけが指示されていただけであり、「東京勤務」の職員の配属部署は研修の最後に示されることになっていた。従って、「毎日これをやるのかなァ」と思いつつ間違ってばかりいるソロバンや札勘をやらされていたのだが、「事務合理化部」という、いささかギクリとするような名称の部での勤務を命ぜられた。合理化などというと、短絡的に首切り・労働争議のようなイメージを持っていたし、電算機を扱う部門と聞いたが、知識がないどころか「コンピュータなる言葉を聞いたことがあったかな」程度のものであったのだ。  

記念すべき最初の仕事  

研修を終え、4月23日に大手町にある「事務合理化部」に着任した。「オンライン班」なるところの配属と言われた。預金、融資、債券、為替などあらゆる業務を電算化するためのセクションで、これから開発が本格化するところであるとのことだったが、一通り挨拶が済むと上司に「この後特に予定はないから、そこのマガジン・ラックにある本でも読んでいて下さい」といわれてしまった。「こんなものなのか」と思ったのだが、記念すべき最初の仕事はマガジン・ラックに読めそうな本を探しに行くことだった。「エコノミスト」、「東洋経済」、「事務管理」、「コンピュートピア」などが並んでいた。2〜3冊を取り出してはきたものの、余り興味の持てないような内容ばかりであった。本を読むより、周囲の先輩達が何をしているかをぼんやりと眺めていた記憶がある。何をしているかなんてさっぱり判らなかったが、後日先輩が言うことには「ニタニタしながら、あちこち眺め回していたゾ」ということであった。確かに、「この人は出来そうだ」とか「あの人は性格がよさそうだ」など、品定めをして見ていたのだから、ふてぶてしい態度の新人と映ったのかも知れない。

4時30分が当時の終業時間であった。終業となり「帰っていい」と云われ、大手町から丸の内周辺を歩いてみた。名だたる銀行の堂々としたビルがずらーっと並んでいる。流石に日本のウォール街と呼ばれるだけのことはある。金融の中心街の迫力に圧倒されるような気分だった。「オレは今、こんなところに居る」と、幾ばくかの感激の思いもあったが、「田舎者がこんなところに居ていいのだろうか」と、場違いな気分であったことも確かであった。  

日銀ダイヤ作戦  

新人には一人ずつ指導係がつくことになっていた。仕事のルールや職場の細々したことなど新人が惑わないよう、早く職場と仕事に慣れるように、との配慮である。自分にも当然指導係がついた。7〜8年先輩で、部の将来を背負うとみなされている人とのことだった。最初に1時間ほど、コンピュータとは何かというレクチャーを受けた。ハードウェアとソフトウェアがあり、「文字通り、堅物、やわ物というようなことだが・・」と説明されたことをいまだに覚えている。

指導係の先輩はとても忙しそうで、その後一切指導を受けるようなことが無かった。放って置かれていいのかと思い、「これを勉強しろとか、こういうことをやれとか、何かありませんか」と尋ねたことがある。「アッハッハ、あんたに教えることなんかねーョ」というのが答えであった。ただ、「大藪春彦の“日銀ダイヤ作戦”は面白かったから読んでみろ」というので買って読んだ。ハードボイルド小説というのかピカレスク・ロマンというのか、日銀の地下金庫から大量のダイヤモンドを盗み出すという話であったが、血沸き肉踊るという程でもなく、普通の小説だったような気がする。思えば、これだけが指導を受けたこととなるのだろう。  

システム適性?  

「事務合理化部」に配属になったばかりの時期は、全業務をはじめてオンライン化するためのシステム・ベンダー選定の山場であったようだ。なかなか新人にかまってあげられない事情もあったようである。結局システム・ベンダーはUNIVACに決まったのだが、いつまでも新人を遊ばせて置くわけにはいかないということだったのではないか、3週間程の富士通のCOBOL 研修を受けさせられることになった。

IDENTIFICATION DIVISIONから始まって、講師の言うとおりに書いていけばPROGRAMが出来るとの説明を受けたが、これでコンピュータが動く理屈が飲み込めなかった。研修の初日に「説明のとおりプログラミングすると、どんな作動原理が働いて演算したり、プリントされたりするのか。作動原理を知らずしてコードの書き方だけを教わっても意味が無いのではないか」の質問をしてしまったところ、講師が立ち往生してしまった。一口にコンピュータと言っても構造は複雑で、様々な技術や仕組みの集合体であることを知らないド素人の質問に講師もまじめに答えてくれようとしたのだろうが、立ち往生させてしまったのはまずかった。

一通り説明を受けた後は、練習PROGRAMの作成である。国語、算数、理科、社会などのテストの点数データを読み、平均点の計算や一覧表のプリントをするという、極くありふれたものだった。教えられたとおりに作ったところ、コンパイル・エラーも実行エラーもなく1回で出来てしまった。「こんなことは珍しい。大概何がしかのエラーはでるものだが」と言われた記憶がある。これでシステム適性を測られた訳でもないだろうが、以来18年間もシステム部門に在籍することになってしまったのだった。  

馬の耳に念仏  

オンライン・システムのホスト・マシンはUNIVAC1110に決まった。1ヶ月ほどの間、20人余りいたオンライン班全員で1110のハード、ソフトの構成や、コンピュータとしての新機軸などの説明を受けることとなった。会議室の座席は諸先輩達が後方を占める。いきおい新人は一番前に座らざるを得ない。毎日、講師の直ぐ前の席に座らされたのだが、殆んど言っていることが分からない。

FH432 DRUMのCONSTANT VALUE TABLEがどうかして」、「ITEM CONTROLのHANDLERがなんとかで、BLOCK TRANSFARがどうのこうの」、「EXEC11のPROGRAM  KICK TABLE は云々かんぬん」、「UNI-SERVOの記録密度はなんとかで、IRGはかんとやら」。念仏のような話を朝から晩まで聞かされた。これまで馴染んできた世界とは全く別世界の言葉や概念が飛び交っているようで、まじめに聞けば聞くほど頭の中は「??&%$&**##$#!&%??」のような感じであった。

これで終日正常な神経を保てと言うのには、大袈裟に言えば拷問に近いものがあるのではなかろうか。自己防衛本能が働くのは自然の摂理というべきである。従って、耳を塞ぎ、ついでに目も塞いで深い眠りに陥るという状況が続くことになる。件の指導係に「あんた、よく眠るねェ」と呆れられてしまった。

もう一つ自己弁護をすれば、朝から疲れていたことがあると思う。やはり、ラッシュにはどうしても慣れることが出来なかった。いかに混み合うとはいえ、丸の内線で池袋―大手町の間、たった15分程度しか乗っていなかったのだが、ストや架線事故など一丁事があった時の駅や車内の殺気立った様子には恐怖感を覚えるほどであったし、職場に出て行くだけでクタクタになってしまっていた。平気な顔をしてもっと長い時間ラッシュの電車に乗っている人は、異星人のような気さえしていたものだ。  

最長不倒距離 83.5m  

ある日の昼休みのことである。先輩達は、冬のスキーの話題で盛り上がっていた。その話の輪の中から指導係の先輩が声をかけて来た。「君は北海道の出身だからスキーぐらいできるだろう」と。勿論、雪国育ちだから滑れないことはないが、ちょいといたずら心をおこした。

「アッハッハ、皆さんがやっているようなチャラチャラしたゲレンデ・スキーなど可笑しくてやってられませんョ」と。「それなら、何をやるんだ」との重ねてのご下問である。「ジャンプですよ。これほど男らしいスポーツはない」。カンテ、バッケンレコード、ランディングバーン、サッツなど専門用語を交え、ジャンプは実は優雅に飛んでいくのではなく、時速90KMのスピードで、真っ逆さまに落下していく競技であること、後にオリンピックでメダルを取ることになる笠谷選手や今野選手達とも飛んだ、などともっともらしく話した。学生時代、ジャンプ競技が好きで札幌の大倉山シャンツェには度々見に行っていたから、先輩達が知らないことをそれなりに知っていただけなのだが。みな「ホゥ」といった顔付きのまま、シィーンとなってしまった。

「一体どのくらい飛んだのかね」と指導係の先輩がまた聞いてきた。「83.5mですよ」。よくもまぁスラスラと出まかせが言えたものだと、我がことながら呆れるのだが、それを聞いた件の先輩は「やっぱりな、流石にやるもんだね」と本気で感心している。ここに到って遂にこちらが堪えきれなくなった。「ハハハ、嘘ですよ。危険だし怖くて、素人がそう簡単に飛べるものじゃない。ジャンプの選手だったら、今頃ここには居ませんよ」と。先輩達が一斉にズッコケた。以来、小生に付いたアダ名が“ホラ吹き”。よその部にまで知れ渡ったようである。  

ベートーヴェン 交響曲第7番  

新人の年1年間は、ほとんど仕事らしい仕事をした記憶がない。オンライン班では預金業務のシステム化担当ということだった。夏頃からシステム設計が始まったのだけれども、そもそも金融機関の実務を全く知らない者に設計が出来る訳がない。4人のチームだったが、お荷物であることは間違いなかった。「何も役に立ってはいないではないか。こんなことでいいのだろうか」とまじめに思っていたことは確かである。

当時は日曜日だけが休日であったのだが、野球部の主力選手だったから毎週練習か試合がある。時には、日曜日にテニスや旅行など部の懇親行事もある。なかなか東京の生活にはなじめない中、肉体的にも精神的にもリフレッシュすることが少ないまま、ひたすら体力まかせで毎日を乗り切ってきた気がするが、様々な疲労が滓のように蓄積してきていたのだったと思う。野球シーズンが終わった頃から気持ちが外に向かなくなり、無力感や孤独感を強く味わうようになってきたようだった。

暮れのボーナスをはたいて、アンプとスピーカを買った。職場から戻ると毎日のように、ベートーヴェンの交響曲第7番を聴いた。この曲には“悲劇的”の呼称をつけている人もいるくらいであり、第二楽章は切々とした悲しみに溢れている。あたかもオーケストラがすすり泣いているように聴こえるのである。ある晩、この第二楽章が始まったとき、涙が出てきて止まらなくなった。あわてて、部屋のドアをロックした。寮生が入って来ないようにするためである。「社会人になるのはこんなに苦しいことだったのか」の思いで一杯だった。それ以来、毎晩部屋に鍵を掛けてから、スピーカの前にうずくまってこの第7番を聴くようになったのだが、やはり時々は涙が流れてくるのだった。  

拒食症  

東京の生活にはなかなか馴染めず、仕事でもとても役に立っているとも思えないまま、ゼイゼイ息を切らしながらやっと1年が過ぎようとした3月の末である。寮に帰り夕食のテーブルについた時、「もう少しで1年になる。しかし、また同じ1年が始まる」と思ったとき、何か張り詰めていた気持ちが切れたような心持がした。急に吐き気がして、全く食事を摂ることが出来なくなってしまった。

以来、食事の度に吐き気がするようになり、どんどんやせ細っていった。健康だけには自信があり、「病気になる筈は無い」と頑なに思っていたのだが、とうとう病院に通わざるを得なくなった。バリュウムをのみ、胃カメラも飲まされ、下剤をかけられ、腸の造影検査まで行った。表層性胃炎ということであった。「胃潰瘍の手前だが、それ程酷くは無い」との診断だった。だが、相変わらずものが食べられず、胃の中に重い鉛を飲み込んでいるような不快感に四六時中付きまとわれた。この後、2年間ほど薬を飲み続けることになってしまった。

青白く生気のない顔色をして職場にはなんとか行っていたものの、上司、先輩、同僚、友人などあらゆる人に心配を掛けた。どんどん体重が減っていき、52KGになった時には、流石に自分の体だと思えないほどであった。「このままやせ細って死ぬのだろうか」と本気で考えたりもした。「なんとか早く元気になって、人並みに役に立つようにならなくては」と焦る気持ちが強かったのだが、不調が長引くとやや諦めの気持ちを持つようにもなってきた。

元気でなければならないと考えるからそうでない状態に苦しむ。「不調の今が常態だとしたら、この状況で何ができるかを考えるという方法もあるのではないか」といったことを考えるようになった。また、「無意識のうちに、バカ真面目に自分を締め付けているところがあるのではないか」などとも考えるようになった。こんな風に思うようになった頃から、少しずつ体調が上向いて来たような気がする。  

有価証券システム開発  

結局東京の生活に慣れることも含め、元気になるのに数年を要してしまったのだが、丁度体力を回復した頃に有価証券システムの開発担当となり、高村さんと一緒に仕事をすることが出来た。上司がシステム技術の面は全て青二才の自分に任せてくれたので、初めてネットワーク型のデータベースを導入したり、CRTディスプレイとライトペンを使ったりと、新しい技術をどんどん取り入れることとした。高村さんは、いち早く新技術を咀嚼し、次々に有効な提案をし、システムを開発してくれた。本当のプロのやることは凄いと思ったものだ。このときに開発した共通的なサブルーチンはその後20年ほども使われたし、データベースの設計思想は、その後開発されたあらゆる有価証券システムに受け継がれて今日に到っている。

文字通り日に夜を継いでの開発だった。長く体調不良が続いた後だったので、当初は恐る恐るという感じもあったが、開発が佳境に入ってくると自分でも驚くほど無理が利いた。毎日が充実していた。このシステム開発を完了したとき、初めて自分は普通の社会人になることが出来たように思った。                      (14.4.18)

特集企画 目次へ