「小さなコンピュータの胎動」と共に自立へ      辻 淳二


 「新人の頃」は、還暦を過ぎた私にとって、もはや
セピア色の写真の背景のようだ。記憶にあるのは、「会社で勤まるのだろうか」という不安、「組織に取り込まれたくない」と思う抵抗心、そんなことごとがない交ぜにあったこと。それでも、徐々に適応して、最初の仕事でチームの一員として役割をこなす中で「自分がよく分かっている」部分ができることで自信が芽生え、いつしか「新人」を卒業していったこと。そこで、この辺りを思い出して、この稿を書くこととしたい。

 先輩とスロースタートに恵まれた「初仕事」

 62年3月に大学を卒業して、NECに入った。専攻は自動制御だったが、当時コンピュータが実用の緒についた所で、「その時流に乗る」という色合いの会社選択だった。現・当会会長の新田謙治郎さんが一年上の先輩で暖かく受け入れて頂いたのだから、(いま思えば)すごく恵まれていた。新田さんは、秋に会社にお訪ねした時にもう難しい仕事を任されてやっておられて(顧客の製鉄会社に納める制御用のコンピュータ・システムを実質的に任されていて、同システムは後に産業界の優れた成果に与えられた大河内賞を客先が受賞した程、先端的なものだった)、「新人なのによくできるものだなあ」と感服したのを今でもはっきりと記憶している。ただ、当時の自分には、「先輩ができたのだから自分にもできる」との自信は全くなく、この先輩に仕込んで貰えば何とかなるだろうという“依頼心”の方が強かった。

 初仕事は、新田さんがリーダー、私が論理設計のサブ、HさんとMさんが回路設計者として参加した4人のチームで、NECとしては初めての「制御用コンピュータ(工場などの現場で使う、厳しい設置環境でも動くことを求められた)」を試作開発するものだった。当時、あまり研究試作予算がなかったので、お隣の事業部門が事務用に試作したコンピューター一式の払い下げを受け、それを解体し、論理素子(遅いが、信頼性の高いことでは定評があったパラメトロン)や筐体などは再利用し、我々の設計アーキテクチャ(といっても、実質は新田さんが一人で考えたもの)のコンピュータに創りかえるというやり方でようやく実施可能となったプロジェクトだった。

 これに参加することに関して、私にはいくつもの幸運なことがあった。先ず、設計の着想を持っていた新田さんが上記の案件を担当しておられ、それが終わるまでに何ヶ月かの猶予期間があって、それが私には勉強の時間に使えたこと。しかも、素子に解体する前の事務用のコンピュータとしての論理設計図面一式があって、これを参考にして「パラメトロンを素子としたコンピュータ」の大掴みな全体像を頭に入れることができた。次に、私が設計を分担した所は入出力を扱う部分で、事務用に比べれば多種・多岐に渡る入出力機器を数少ない入出力命令で扱えるように考慮すること以外はさほど難しいところはなかったこと。量的にも、定かな記憶はないが、図面に書き上げた論理設計全体の中で、私が書いた部分は2割に満たなかっただろう。これは、結果的に、その後の「正常に動くようにするための検査」の過程でチームの足を引っ張ることにならず、(当然ながら)範囲の狭い自分の所のテストが先に済むからその後は新田さん設計の難しい所の検査のサポートに回り、そこでその設計を学ぶことを通して全体を知るという結果になって、「少なく苦労し、大きく学ぶ」という幸運に繋がった。

 「コンピュータの胎動」を現場で体験

今ならコンピュータの頭脳(CPU)部分はLSI数個に収まってしまう「CAD(Computer Aided Design)で自動的に作られるもの」になっているが、当時はまだ、電話交換機用の背の高い架に回路基板を多数実装し、論理を組み立てる要素となるAND、OR、NOT機能を基本素子を配線で繋いで実現するものだった。従って、人手による設計が極めて細部に渡り、さらに素子間/基板間の接続には膨大な数の配線の手間をかけ、コンピュータとして動くように仕上げる必要があった。そこで、設計作業の結果として、ページ数にして100ページ以上あった「布線表」という、素子間/基板間の配線を指示する書類を作成していた。かくして、布線の数が数千、一万に及ぶので、設計段階での考え違いや書き間違い、試作を引き受けた下請け先での布線作業のミスなどが入り込む余地が多大にあり、下請け先から試作機が当社の検査現場に納入されてもスンナリ動くことは到底考えられない状態だった。実際、納入されてきて検査現場の設置場所に据えられたコンピュータは、電源を入れてもウンともスンとも言わない「超・未熟児」だった。かなりの数のパラメトロンを繋いで組み上げた装置は、電子回路のR(抵抗)、C(コンデンサー)、L(コイル)の各要素を複雑に抱え込んでいて、電源から供給するパワーが滑らかに各素子に流れないようだった。この入り口で直面した問題に、電気回路の知識に疎かった私は手も足も出なかった。新田さんを中心に、電源に強い現場の人たちの支援も得て、素子が物理的に正常に動作する所までもってくるのに、数日を費やしたのではなかったろうか。電源がまともに動き始めた時は、人間で言えば心臓(電源)が働き出して全身に血が流れる感じ、つまり「止まっていた心臓が動き始めた」というイメージで、今でも脳裏に残っている。それだけ、印象が強かったのだろう。

「検査で苦闘」が全体を知るチャンスに

 次なる関門は、コンピュータとして機能させるための論理に関わる、設計から布線に至る全てのミスを見つけて直すことだった。これは、結構手の掛かる作業だった。動作のおかしい箇所を見つけ、その動作に関係している素子について、素子は正常か、布線が正しいか、布線の指示の所で間違えていないか、論理設計の思い違いがないか、とあり得る欠陥を想定しながら追及していく。ミスは結局、一番多かったのは製作をしてくれた下請け先の布線ミス、次に多かったのは我々設計者の布線表への記入ミス、やはり少なからずあったのは設計者の力不足や思い違いによる設計ミス・・と、全体としては膨大にあった。そこで、障害のある所を一つ一つ直しながら各機能を正常に動作するものにしていくのに、何ケ月もの期間を要することになってしまった。その頃、同期で入社したS君がNTTからの受注ものの装置を担当していて、やはり納期が近くなって追い込むために検査現場で泊り込むと言い出して、仮眠用のエアーマットと寝袋を会社に要求して買って貰おうとしていた。そこで、それに便乗して我がチームにも買って貰い、新田さんと私とがシフト勤務して昼夜兼行でテストができるようにして、遅れるテスト工程の食い止めを図ったりした。幸いにも、検査が軌道に乗り始めると、正常に動いている機能は日に日に増えていくし、新田先輩の設計図を見ても凡そは分かるしということになって、新人でも戦力になれる“体力勝負”の様相になってきた。しかも、自分が出番のシフトの時には新田さんはいないから、どうしても自分で判断して動かざるを得なくなる。そんな流れに背中を押されて、万事にスローな私も自ずと自立していったように記憶している。

 「先行きが見える」に連れて自立へ

その間の、一台のコンピュータとして正常に働くまでの悪戦苦闘を象徴していたのは、下請け先から全ての布線を終えて工場に納入されて来た時には筐体の扉がきちんと閉まったのに、ミスを見つけて我々が素人のハンダ付けで正しい布線に直していくに連れて増えたストラップ線が太い束になって、ある時期からもはや扉を閉めることができないという状況になっていったことだった。そして、“完全に動く”ように出来あがった時点では、下手に動かしたらどこかの布線が外れて動かなくなるかもと思うほどの、修正配線の束になっていた。このシーンも、どういう訳か、結構イメージ鮮明に覚えている。

 このように、苦戦はしたが、身体で言えばいろんな所が攣っていたのが「ここは血が通り始めた、今度はここが・・」と回復に向かっていくように、「ああ、後は時間の問題で動くな」ということが身体で分かるようになった。そうして、自分もかなりの箇所に渡って「まあ、分かる」との自信がついて来ると、だんだん怖いものなしになって来る。こうして、全く虚弱に見えた我がチーム開発の小さなコンピュータが正常に胎動し始めるとともに、同じように頼りなげだった自分も新人を卒業していった感じだったことを、いま懐かしく思い出している。[2002.4.29]


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