私の新人の頃                山田 俊治

この3月末に丁度40年におよぶサラリーマン生活を卒業し、このところこれまでの半生を振り返る機会が多い。考えてみると、人生設計における計画性の無さにかけては人後に落ちないという自慢にならない自負がある。大学における専攻の選択然り、就職然り、結婚また然りである。人生の節目にあたる重要な意志決定に限って、短時間の間にふとしたきっかけで決めてしまっていることに気がつく。人間は決断に時間をかけたからといって、後悔することがないかというと、決してそうではない、必ずや後悔するときがあるものだというのが、私の生き方の基本になっている。

就職を決めるに当たって、その夏には弱電メーカーに実習に行った。その時点ではどこかその種の会社にと考えていたが、休み明けに同期の友人達の話を聞いているうちに、当時給料の高い---といっても、初任給だけだったことに後で気づくのだが---プロセス産業に行くことに変わってしまった。とはいっても、当時、東洋高圧が新たに作ったばかりの東洋エンジニアリングに興味があった。計測屋としてのモノづくりの対象は、化学製品ではなく、それを生み出すプロセス・ブラントだからである。

私が卒業した昭和37年は、就職戦線における売り手市場のピークであった。前年の101日、これは就職活動の解禁日であったが、当日の東洋高圧における入社試験に大幅に遅刻するという大チョンボをしでかした。前夜からの徹夜麻雀の後、出かけるには少し時間があると思っているうちに寮の個室で不覚にも眠ってしまい、人事部長からの電話で起こされる羽目になったのである。

人事部長の指示によりタクシーで駆けつけたときには、既に正午近かった。しかも、私の予想に反して、当日の受験生は私を含めて僅か2---実は、ほとんどの大学の場合、それ以前に内定していた---、従って、当日面接に当たった技術担当専務以下の幹部を2時間近く待たせる結果になってしまった。願書も履歴書も当日私が持参することになっていたから、会社には私に関するデータは皆無である。面接は正しく世間話で終わった。いくら何でも採用はあり得ないと思って控え室で待機していたところ、驚いたことに採用と相成った。思えば、身勝手ないい方になるが、これが当時の東圧の自由闊達な社風の一端を表していたような気がする。

翌年春、新入社員教育を終えて、配属を決める際に、願書に記した通りに東洋エンジニアリング希望といっておけばそれで決まりだった筈である。私は、エンジニアリング会社に行く前に2-3年東圧に置いて貰って、化学工学の勉強をさせて欲しいと願い出た。これが良かろうという話になって、当時の茂原工場に配属になったのである。

  茂原では、この目的に沿っていくつかの化学プラントの運転実習を行い、その後工業化試験のプロジェクトにも参加したから、三交替と二交替を合わせて、1年半におよぶ交替勤務も経験した。ここで、化学工学という技術分野は、教科書的知識をマスターするのは容易だが、実際のプラントの中で起きる現象を化学工学的に解析しようとすると、並大抵の経験ではできないものであることを学んだ。

  ただ、この間、私が虜になったのは化学プラントの動特性の追求だった。世の中は、コンピュータによるプラントの最適制御や最適設計の話題で持ちきりだった頃である。私は、何とかしてプロセスのダイナミックモデルを作り、それに基づく最適化制御を実現したいと考えた。そのためには、白色ノイズの発生器や当時の先端的なアナログコンピュータなど、動特性の測定やシミュレーションのための設備が要る。早速投資計画を作成した。それは、工場のスクリーニングは無事パスしたが、本社の投資会議でハネられてしまった。

  もう東圧の中で私のやるべきことは無い。入社後既に2年が経過していたので、そろそろ本来の東洋エンジに転籍させて欲しいと人事部に願い出たところ、入社時点とは人事部長が替わっていて、「そんな約束は聞いていない」といって拒否されてしまった。

  何分にも、就職については売り手市場の時代である。私は会社を辞める決心をした。行き先としては、某コンピュータメーカーを考えていた。397月のことである。そんな折りに、私よりも2年先輩で後に東大・化学工学科の教授になったFさんが、2年間のMIT留学を終えて茂原の工場に復帰した。「入社して2年経つと、社内の海外留学制度に応募できる」という。Fさんの助言に従って、これに応募し、ダメだったらその時点で退職することにした。

  上手く行く時とはこんなもので、人事に問い合わせると、その年の海外留学の募集要綱が本社から届いた直後だった。9月の締め切りで業務論文を提出し、10月に行われる英語の試験を経て結果が決まることになった。前記のような事情なので「ダメもと」での受験だったが、何故か英語の成績が良かったようで、トントン拍子に合格してしまった。

  このような次第で、40年の秋から2年間、米国のCase Institute of Technology (現在は、Case-Western Reserve University)Systems Research Centerに留学することになったのである。ただし、帰国後5年間は会社を辞めないという誓約書つきである。2年後に職場に戻ると、会社は旧三井化学と合併して三井東圧化学になるし、石油化学の大型プラント建設ラッシュの時期を迎えていた。相次ぐプラント建設に従事しているうちに、そのまま三井東圧に居着いてしまうことになった。

  その後も、縁あって山武に移り、そこでサラリーマン生活を締めくくった訳だが、都度出たとこ勝負の生き方は、今も新人の頃と少しも変わっていない。レバタラをいえばキリがないが、さまざまな出会いを経験できて、しかも、それらが結構有機的につながって相乗効果をもたらして呉れる。これからも新たな出会いを大切にして行きたいと思っている。


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