「オクトパス」の仲間たちと共有した感動      新田 謙治郎
               


 自慢できる秘蔵品や宝物などは何も無いが、家族、友人、会社の仲間は私にとってかけがえない存在である。その中でも「オクトパス」の仲間との活動の想い出やその後の彼等との交流は正に私にとっての宝物といえるだろう。  
 オクトパスとは、云うまでもなく蛸のことである。つまり8人のコーラス・グループ(ダブルクァルテット)にその名をつけたものだ。

 高校時代に合唱班に属していたので、大学に入ってすぐ駒場の柏葉会という混成合唱団に加入した。

 当時の東大には女性が殆どいなかったので、外部の女子大生に参加を募って活動していた。なにしろ100人近い大所帯だったので、先輩達の内にはクアルテットや混成ダブルクァルテットを組んで独自に楽しんでいる人達も居た。それに刺激され我々も男性
8人のダブルクァルテットを作り独自の練習を始めた。この仲間とある晩飲んでいた時に、誰からともなく「俺達はこうして歌って楽しむだけで学生生活を過ごしてしまっても良いのだろうか?」と言い出し、議論になった。

 まだテレビも殆ど普及していない時期だった。音楽や歌という環境に恵まれていない人達に歌う喜びを伝える活動を通じて、自分達も成長出来るのではないか。僻地の小、中学校、孤児院、少年鑑別所、刑務所、地方の病院、らい病村、北海道の開拓村の青年団など、いろいろな訪問先が候補に挙がり、議論に歯止めが効かなくなっていった。そして約1ヶ月後、8人の内3人は柏葉会に残り、5人が飛び出した。飛び出すに当たって、仲間の一人が「柏葉会脱退の弁」という格調高いが、喧嘩腰の文章を書いたので、私が「柏葉会を退会するにあたって」と少しおとなしい文章に書き直した。それでも『唇に歌を、心に太陽を』をモットーに希望に燃えて社会と接触を保つ活動に入ってゆくことを高らかに謳った、相当に肩肘張ったものだったと思う。  

5人という変則チームだったが、その後まもなく父の勤務地であった茨城県の山奥の僻地の小中学校を訪ねる機会を得た。小中学校合わせて20人にも満たない学校だったが彼らの熱狂的な歓迎振りと歌唱指導に一所懸命ついて来ようとする姿勢に、大いに勇気づけられた。また父が経営していた炭鉱の鉱夫10数名の歓迎振りにも元気づけられ、何が何でも8人のメンバーを揃えようと皆で動き出した。  

幸い寮生が2人居て、寮仲間からファーストとセカンド・テナーを見つけてくれた。傑作なのは、バスの男のハントだった。時は安保闘争の時代。国会周辺へのデモ最中に、インターナショナルの歌を素晴らしく良く響くバスで歌っている男を仲間が見つけた。早速誘ってみたが、音楽的な訓練を受けたことが全くない男で、勿論楽譜も読めない。早速、私の下宿先に連れてきて、金盥と箸でリズムをとりながらのコーリューブンゲンの特訓が始まった。彼は天性の声の良さに加えて、リズム感が良く、めきめき上達して後にソリストとしても活躍することになる。その男の名前は吉田兼孝。その後無二の親友として長く付き合うことになる男である。8人揃ったので、このグループにオクトパスと名付けた。文系4人、理系4人のバランスの取れた構成になった。  

二年の秋休みを利用して九州演奏旅行を実行した。佐賀や鹿児島の僻地の中学校、熊本の孤児院と恵楓園(らい病村)、人吉の少年鑑別所や青年団などを訪問し、ただ演奏するだけでなく、歌唱指導や歌の交換会、懇親会での団欒などを思う存分楽しんだ。

特に印象深かったのは恵楓園の訪問時。午後明るい内に、寝たきりで動けない人達の病室を訪ねて、窓の外から1曲づつ歌って回った。手足がどれだけ残っているか分からない人の布団が、私達の歌に合わせてピクピクと動くのを見たときは、思わず胸が詰まった。夜は小さな講堂で(それでも100人以上いたと思う)歩ける人に集まってもらって、演奏会を開いた。1曲終わる毎の拍手が指の無い人独特の音で、なんとも言えない気持ちだった。

球磨川下りで有名な人吉では昔野口雨情が長く逗留したという人吉旅館に泊った。水上勉さんの紹介状を持って行ったのだが、旅館の主人は始め不快感を表に出した渋い顔をしていた。私達のことを学生の小遣い稼ぎの演奏旅行だと勘違いしたのだろう。旅費も宿泊費もすべてアルバイトで稼いだ自前の金で賄って来ていること、演奏会では一銭も貰うつもりは無いこと、そして私達の活動目的を説明したら、急に主人の顔色が変わったのが分かった。翌日の朝食は、球磨川名物の鮎の塩焼きをはじめ豪華なお膳。午前中の少年鑑別所の訪問後は旅館で昼食を用意するから、是非帰ってきてくれとのこと。そして昼は、これまた人吉名物の蕎麦の食べ放題をご馳走になった。  

成功裏に九州旅行を終えたものの、その後が大変だった。実は指揮を担当していた私としては、オクトパスの持つ力をピークまで持っていって旅行に出たつもりだった。それだけに帰った後の目標を失った。指揮者としての限界を感じざるを得なかった。皆の練習にも熱が入らなくなり、時には練習を欠席する男まで出てきた。まさに壁に突き当たったオクトパスの危機だった。さらに技術レベルを引き上げるには新しい指揮者が必要だった。

そんな時、偶然渋谷の斉藤楽器店の前で「東京コラリアーズ練習場」という看板を見つけた。コラリアーズは当時唯一のプロの男声合唱団で、ダークダックスもこのメンバーから生まれたものだ。藤原歌劇団の指揮者福永陽一郎氏が指揮しているのは演奏会で知っていた。思わず飛び込んで練習の終わるのを待った。最初に部屋から飛び出してきたのが福永さんだった。

思わず先生の前に立ちはだかり、手短にオクトパスの活動目的を話し「貧乏学生だからたいしたお礼は出来ませんが、どなたか若い指導者を紹介していただけませんか。」と頼んだら、返ってきた返事は意外なものだった。「一度私が聴いて見ましょう。」(この福永先生との出会いについては以前「忘れがたい思い出二つ」の一つとして投稿したので、一部はダブルことになる。)

翌週の練習日、池尻幼稚園で私達は緊張して先生の前で歌った。そのうち先生が黙って前に立って手を振りだした。魔法の手に導かれるように私達はかって経験したことの無い表情豊かな声を出していた。終わってからの先生の言葉はまさに仰天ものだった。「私が指導しましょう。もちろんお金は一銭もいりません。」その後1年以上先生は無償で私達の指導をして下さることになる。それどころか時には鵠沼の自宅に私達を招んで下さり奥様の手料理をご馳走して頂いたこともあった。

私達は先生の指導でどんどん自信がついた。五月祭に、東大のコーラス・グループの一つとして黒人霊歌を5曲歌った。満員の安田講堂で8人だけが出てゆくと、会場からくすくす笑いが聞えた。何しろ他のグループは50人から100人の合唱団だったから。

ところが最初の一曲を歌い始めると、会場はシーンと静まり返り、最後の「Soon a will be done 」をフォルテッシモで歌い上げると、ため息と共にものすごい拍手喝采が起こった。気分は最高だった。聴いていた友人何人かに「感激した」と言ってもらった。私達は気づかなかったが、福永先生も2階でこっそり聴いていて下さり、後日「なかなか良かったよ」と言って頂いた。余談だがこの演奏を聞いていた後輩たちが、第二のオクトパスを結成したと後で知ることになる。  

7月から8月にかけて、18日間の北海道旅行を計画した。今回は僻地や病院のみならず、一般公開の演奏会で“真に音楽を聴く耳を持った人達にオクトパスの真価を問いたい“という希望があった。北海道出身の勝又(トップテナー)が、函館と室蘭の公民館での演奏会の話をつけてくれた。後は道庁と北海タイムスに資料をもらいに行き、矯正管区長を紹介して貰って、函館と釧路の少年鑑別所、千歳の少年院をセットしていただいた。また、上川教育局長には当間、上川、美瑛、富良野、山部の小中学校や公民館での演奏会をセットしてもらった。この間、北海道関係者に私が書いた手紙だけで40通を超えたという記録がある。北海道教育庁から聞きつけたらしい読売新聞が事前にインタビューに来て、大きな記事を出してくれた。『「生活に歌を持つ者の喜びを、娯楽に恵まれない僻地の人々に知って頂くため、この夏北海道に演奏旅行をしたい。旅費、宿泊費などすべて自弁しますから、僻地の開拓部落を紹介してください」という手紙が届き、観光に来る学生は多くても、こうゆう学生は初めてだと、北海道教育庁の関係者たちを感激させている。』という書き出しの記事が手元に残っている。

さらに、この記事を見た先輩の帯広裁判所長から、「折角そこまで来るのなら、是非帯広まで足を伸ばして欲しい。公民館での演奏会を準備する」と言ってきた。さらに、これらを聞きつけたNHKが、函館と帯広で昼間の15分間のラジオ放送を準備してくれた。今も、NHK(日本薄謝協会)の3000円の領収書がその時の録音テープと共に残っている。

各地で「日本の童謡」「愛唱曲集」「コミック・ソング」「黒人霊歌」「月光とピエロ」など30曲余りのレパートリーから選んで、1時間半から2時間の予定でプログラムを組んだ。

演奏旅行は一口にいって大成功だった。吉田のユーモアたっぷりの司会が、子供たちを沸かせてくれた。各地での大歓迎振りは写真と記録に残っているが、ここには書ききれない。ある公民館の演奏では会場に入りきれず、窓に鈴なりになって聴いている子供や村人たちの姿が残っている。北海道新聞、北海タイムスをはじめ各地の地方紙が、読むのが恥ずかしいくらいの記事を書いてくれた。また、少年鑑別所の生徒たちの感想文も送ってくれた。一つの思い出は、帰りの札幌駅で私達を見つけた坊主頭の少年が「先生!」と呼びかけ、「先日はありがとうございました。昨日少年院を出所しました。」と声を掛けてくれたことだ。  

北海道旅行の後はめっきり練習量が減った。4年になると卒論や司法試験で忙しくなるからと、3年の終わりにお別れの「OCTOPUS ファミリー・コンサート」を女子会館で開いたが、実力の低下は酷いもので、自分たちのみならず、期待して来てくれた人達をもがっかりさせることになった。卒業後、各人それぞれ大学に残ったり企業に就職していったが、時々集まっては昔話に花が咲く反面、歌は歌うたびにレベルがどんどん落ちてくるので、そのうち歌を忘れたオクトパスになってしまった。8人のうち7人の結婚式の司会は吉田がやり、吉田の結婚式だけ私が司会を勤めた。そしてオクトパスの集まりも、奥さんたちを含めた16人になっていった。

全員が集まる機会は少なくなる中で、吉田とは個人的な交際がずっと続いていた。特に、90年代になって彼はサンフランシスコ、私はボストンの駐在だった頃は、家族ぐるみで行き来して付き合った。楽しい思い出は数え切れない。帰国も同時期になったが、私が病気で2年半入院していたところ、彼の家が病院に近いせいもあって、殆ど毎週のごとく見舞ってくれた。  

その彼が、一昨年の春突然亡くなった。増上寺で行われた葬儀で友人代表として弔辞を読んだときは、嗚咽をこらえるのに必死だった。

彼が逝ってしまい、オクトパスの集まりは15人になったが、彼があたかも同席しているような会合が続いている。彼の思い出と共に、オクトパスの思い出や今も続いている交遊は、間違いなく私の宝物だ。[H14年11月28日]

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