「100点主義」より「60点主義」で 瀬川 滋
今回の企画の「100にちなんだ話」は私にうってつけのテーマで、当然定番の「日本"百"名山」を取り上げるべきであろう。しかしこのテーマについては過去何回か報告しているし、完登したのが’97年とかなりトウが立っている。また、現在挑戦中の「日本二"百"名山」については現在も都度報告しており、敢えて今回の企画に特別報告する価値も無い。
となると、さて何を取り上げるか。「百」ということでは、他に「日本百名水」とか「日本百観音(関西33+関東33+秩父34)」、「**百景」、「**百撰」、「**百話」、「百人一首」等々、いろいろある。これらのどれかを取り上げればいいのだろうが、私には適当なものが無いので別のものを取り上げることとする。普通「百」は慣れ親しんでいる十進法の切れの良い区切りなので、良い意味で使われることが多い。しかし本稿では、オリジナルはある人が言い出したものを流用したものではあるが、私がこのところずっと大事にしてきた、"百"を若干ネガティブに扱ったテーマを取り上げてみる。
普通、人は何事においても100点を狙う。これは子供の頃から、学校に入って60点取るよりも100点を取る方が偉いとされ、何となく何をやるにしても100点を目指して頑張るように教育されてきたことによるものと思われる。一般に、学校での勉強は色んな課題に対して正解は1つであり、予めどんなやり方が正しいかも分っており、学校の勉強をちゃんとやってさえおれば100点は取れるのである。このような、学校での習性をいつまでも維持し、社会に出てからも常に100点を狙って行動するタイプを「"100"点主義」ということとする。
学校に対し実社会ではどうか? 課題に対する解は必ずしも1つでは無くいくつもあるとか、あるいは解が全く無いということも珍しくない。即ち、100点の解というのはまずあり得ず、現状を冷静に判断し、限られた条件の中でどんなやり方がベターなのかを判断していっている。実際70点、60点、50点・・・と色々選択肢があり、その中からどれかを選んでいる。この場合、考えられる最も高い点である70点を選択しているのが常であろう。しかし、必ずしも最高点で無くてもいい、その時その時の人・物・金のリソースを考えて最もバランスする解でいい、50点では駄目だろうけれども、もし60点で何とかなるのだったらそれでもいいじゃあないかという考えもある。どうせ世の中変化するのだから環境が変わればその解は60点が80点に化けるかも知れない。またある時点で70点と思っていても、50点になってしまうかも知れない。どうせそうならとりあえず60点を狙っておいて、環境が悪化すれば君子豹変して別の解に乗り移ればいいのじゃないかという行動指向である。このような考え方を「60点主義」と言うこととする。
両者を比較すると「"100"点主義」者は常にBESTを狙う。しかし、現実社会はそう甘いものでも無い。何かやろうとすると、必ず限界にぶち当る。とすると、やろうとしていることに対して問題や限界ばかりが見えて来るのでそれを並べ上げ、ひいては出来ない理由を主張し、結局は全く前に進まないというのが落ちである。物事の批判ばかり言って、現実何も出来ないタイプということが出来ようか。とかく、何事に対しても「1」か「0」かで区分けし、非常に頑固で元々変化なんて起こる訳は無いということで全ての論理を構築しているので、来たり来る変化には全く弱い。
これに対して、「60点主義」者は物事の可能性にのみ着目し、とにかく何か方法は無いか、もし出来ないのならば何か代替案は無いかを常に模索し、今より少しでも前に進むのであればやってみよう、もし駄目なら別の方策に挑戦してみようということばかりを考える。とにもかくにも、少しでもメリットがあればやってみようというBETTER派といえよう。往々にして、「まあまあまあまあ」とか「まあこの辺で良かろう」という結論を出す。そういう意味で曖昧さというものを非常に大切にする。また、今起こっている変化に対しても敏感で柔軟なだけでなく、変化さえも創り出すことが出来るのである。更には、ただ曖昧さを大切にするだけでは無くて、将来の起こり得る変化を見越して、肝心な部分にそっと「枠」をはめることまでやってのけることが出来るのである。
両者の人間性を比較してみると、前者が、細かいことが好きなこつこつ生真面目な完璧主義者で、知らないことに直面すると思わずたじろいで一歩退がるというタイプなのに対して、後者は、機微や茶目っ気を尊び、知らないことに対しても「これどうなってるの、面白そうだな」と一歩前に出るタイプというように好対象を示す。また大切にするものにしても、前者は既成の「技術」「経験」であるのに対して、後者は「思想」「価値」「発想」であり、趣味においても、前者は無趣味かせいぜいパソコン等機械位であるのに対して、後者はスポーツとか文化活動というように全く正反対なのである。
100点取るのは大変だが60点取るのなら何とかなるということで、「60点主義」の方がたやすいなんて考え勝ちであるが決してそうでは無い。しかも、特に私が重視しているのは「60点主義」の曖昧さを大切にしながらも、これにそっと「枠」をはめるという考え。これは言うは易く行なうは難し。例えば、プロジェクトを推進していて良く経験することであるが、将来もめるかもしれないなと思うような懸念が芽生えた場合、前者はその時点で真っ向から白黒付けようと相手に対して論戦を挑み、結果もめてもいないことまでも表面化させ、ごたごたさせてしまう。これに対して後者は、もめる前のその時点では特に大きな話題にもせず、議事録等でそっとさりげなく枠をはめておき、その後何も無ければそれで良し、万が一ゴタゴタ問題になった時にだけ「おおそれながら、あの時・・・」と議事録等を取り出して相手を納得させてしまうという芸当をやってのけるのである。ここまで出来れば極みといえよう。
この「60点主義」、既述の通り単に何かに秀でているだけでは駄目で、豊かな人間性とでもいおうか、バランス感覚とでもいおうか、人間の巾が求めらるのである。このマークシート全盛時代に学生時代を終えた人は、とかく「1」か「0」の「"100"点主義」に陥り勝ちである。私は、若い人、特に学校出立ての人にビジネスマンたる者は是非「60点主義」を志してほしいといつも訴えているし、常に自分でも「60点主義」を旨としている積もりである。
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