100にちなんだ話          高村 賢治
 

  全く私事で恐縮なのですが、百年前の1903年に父が生まれたことを思い出しました。雪国の福井で九人兄妹の一番上に生まれ、幼い頃から随分忍耐強く育てられたようです。子は総じて親を高く評価したがるものなのでしょうが、多芸多能のなかなかの快男児であったようです。剣道、テニス、野球に柔道と福井中学時代は試合となると何でも駆り出されたそうですが、勉強はその分さっぱりで、特に数学や博物は苦手だったようです。それでも、あるとき博物の先生を見返してやろうと猛勉強をし、「甲」の成績は間違いないと自負していたところ、またまた「丙」の成績なので、「先生、今度ばかりは丙とは納得できません」と抗議したところ、先生曰く「ん、高村か、高村は丙だ」という回答で、参ったと言っておりました。また、当時からハイカラで、叔母の話によればバイオリンなども得意だったそうです。中学は5年で卒業しましたが、優秀な友人達が4年で高等学校に進学したことに発憤し、親の反対を振り切って上京、早稲田の専門部で法律を学んだそうです。当然仕送りなどない、典型的な苦学生で、早朝の納豆売りから始めて人足仕事など、働きながらの勉強だったようです。学習院だかその寮だったかと掛け合って、夜に残ったご飯を貧乏学生達が引き取る仕組みも作ったと言っておりました。それでも浅草のオペラや落語が大好きで、飯代や電車賃を削って見に行ったようです。当時の文芸雑誌の懸賞に創作落語で応募し、2席に入賞したのを見せてもらったと叔母が言っておりました。勉強の方はどうしても眠くなるので、錐を持ち、眠くなると腿を刺して勉強したそうです。その甲斐あって高等文官試験に合格し、当時としては結構高い月給をもらったと言っておりました。一度結婚に失敗し、10歳違いの母と再婚したのは、数えの33歳でした。母の話によれば、洗足池のボートの上でプロポーズしたようです。2.26事件の時は、再婚後間もないときで、母の心配をよそに戒厳令のもと雪を踏んで登庁し、不測の事態に備えたそうです。無類の酒好きで、役所の机の下に一升瓶を置いていて、時折お茶代わりに飲んでいたという不埒者でもあったようです。当時の宴会には必ず芸者がついたようで、家に帰ってくると芸者衆に教わった踊りやら歌のおさらいをしながら、母を笑わせ通しだったようです。戦後の貧乏の中でも、父が飲んで帰ってくると家中を笑わせてくれるので、実に楽しみでした。母から教わった、父が宴席で即興で作ったという義太夫に次のものがありました。

 これから語る義太夫は デタラメ、デタラメ
 上野の山の不忍の、まん中にゃ 弁天堂、弁天堂
 そこへお参りの人を、見てあれば、
 羽織のようで羽織じゃなし、袖無しのようで袖無しじゃなし 半纏、半纏
 お腹が空いてくるほどに、茶店に入って見てあれば、
 蕎麦のようで蕎麦ではなし、うどんのようでうどんじゃなし ところ天、ところ天
 そいつをあんまり食い過ぎて、通うたところは 雪隠、雪隠
 雪隠から出たならば、にわかに倒れて七転八倒 てんかん、てんかん
 もしやそなさん、どうしなすったと聞いたなら、
 これもみんな、借金、借金

  遊んだ事ばかりでは父に叱られそうですので付け加えますと、当時から座禅には熱心で、結婚後も鶴見の総持寺に足繁く通っていたそうです。幸福な新婚時代は一年余りで、支那事変勃発により徴兵され、中国に出征しました。伍長ということで小隊長だったようですが、扁平足で長い行軍には随分苦労したようです。戦友が自分の分だけでも重いのに、分担して荷物を持ってくれたと話しておりました。また、鉄砲は一度撃つと掃除が大変で、不精者の父は弾を込めなかったと言っておりました。小隊長なので進めー、撃てーと号令する役だったからなのでしょうが、矢玉の中を飛び出すときは小隊長が先頭を切らないといけないから大変なんだとも言っておりました。一度赤痢にかかって野戦病院に入れられたことがあったそうですが、塩水を注射?するぐらいの治療しかなく、ばったばったと死んでゆくので、これは駄目だと思って無理矢理逃げるように退院してしまったが、奇跡的に直ることが出来たと言っていました。丁度そのころ私の兄が赤痢が原因で亡くなったので、母は兄が父の身代わりになったのだと言っておりました。出征後に生まれ、数えの4歳で死んだ兄の顔を父は見ることが出来ませんでした。戦地から友人に書き送った俳句を、友人が投稿してくれて「むらさき」という雑誌に載ったと母が言っていましたが

 長らへし命の野風呂春の月
 砲弾の跡ある伽藍桃の花

という二句のいずれかだったと記憶しています。風呂はドラム缶を利用した文字通りの野風呂だったようです。父の俳号は春篁、祖父にも俳号があって青篁としていたものですから、高校時代に「僕も俳号を持とうと思うんだけど」と相談したところ、「賢治は泣き虫だったから、雨篁はどうか」と言われて参った記憶があります。支那事変から戻って姉が生まれましたが、満1歳を待たずに今度は太平洋戦争での出征となり、スマトラに行くことになりました。占領地の行政を行う司政官としての出征でした。二隻の輸送船が同時に南方に向け出港したそうですが、一隻は撃沈されて全滅となったそうです。スマトラ時代は物資の輸送などの遂行に苦労したようですが、激しい戦闘はない地域で幸いのようでした。ただ、敗戦となった後が大変で、どのように日本に戻る手だてをつけるかが大変な苦労だったようです。本当に草の根を食べて飢えをしのいだそうです。日本に戻ってくると、母が疎開していた福井の実家も全焼しており、一切をなくしての出発になりました。役所(都庁)も司政官を務めたことが逆風となって冷遇され、腹を立てて辞表を出してしまい、事業を始めることになりました。それからは、本当に貧乏に明け暮れた日々だったようです。幼かった私には全くわかりませんでしたが、今思えば、夜暗くなってから母に連れられて、質屋の前で待たされた記憶がなにか物寂しい記憶として残っているくらいです。母がデパートを見上げて、「いつかデパートで気持ちよく買い物がしたい」と父に言うと、「もうしばらく待ちなさい。いまにデパートを丸ごと買ってあげるつもりなのだから」と誤魔化されたと、よく笑いながら愚痴っていました。事業は、元々技術屋ではないので、砂利トラックの運送業から始めて、ピクニック用の家具、乗降客のカウンター(計数機)といったアイデア製品の製作販売に挑戦したようですが、結局成功するまでには発展できなかったようです。その間、役所の先輩が衆議院議員に立候補し、参謀として参画したりしましたが、当選直後にその方が急死されるという不運もありました。その先輩は「高村という男は、3日どぶに漬けておいても、笑って出てくる男だ」と父を高く買ってくれていたそうです。結局、都庁に残った同僚の紹介で駐留軍の健保組合に勤める事になったのは私が小学校の頃でした。その後私が高校に入った頃、請われて調布市の助役を務めましたが、市長との折り合いが悪く2年半でやめてしまいました。短い間の行政官としてのカムバックでしたが、中央図書館の設立や品川道という甲州街道のバイパスのための用地買収、水道・下水・都市ガスといったインフラ整備の推進にそれなりの力を発揮できたようでした。助役を辞めて2年後に脳血栓で倒れ、その後は後遺症との戦いでしたが、今でも当時の父になぜもっと親しく優しく出来なかったのかが悔やまれます。大学時代に遅い反抗期が始まる「甘ちゃん」だったことが、実に苦い思い出です。救いは姉の旦那さんがよく出来た人で、時折訪ねてくれては碁の相手をしてくれるのが、父にとってはとても楽しみだったようです。晩年、体調は優れないものの、近所に碁友達もおり、座禅にいそしみ、好きな庭いじりや盆栽作りに時間を割くことが出来たのは、父の幸いであったように思います。私が唯一父のために出来たことは、存命中に結婚した事ぐらいでしょうか。しかし、内孫の顔は見せることが出来ず、結婚の翌年に父は亡くなりました。享年73歳でした。福井中学時代の同級生で仲が良かった深田久弥さんはもう亡くなっていましたが、同じ同級生で最高裁長官を務めた石田和外さんからは丁重なお手紙を頂戴しました。父が戦後都庁をやめると言った時に、「腹を立てずに辛抱して、一緒に日本を立て直そう」と忠告してくれたんだが、と父が珍しく自分の短気を反省していたこともありました。

 長々と、私的な父の思い出を綴ってしまいましたが、「100にちなんだ話」という題で思いがけず父のことを書いておく機会が得られ、とても嬉しく思っています。ありがとうございました。



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