私のこだわり         高嶋 宏尚

                     
 好き嫌いはかなりはっきりしているのではないかと思うのだが、さて自分がこだわっていることとなると、いささか考えてしまう。もともと、かなりいい加減な人間だと自己評価しているのだから、「どうしてもこれでなくては」とか、「誰がなんと言おうとも」と言うほどのものは余り無さそうに思う。高邁な思想や理念に裏打ちされた「こだわり」は無いが、強いて挙げれば、好き嫌い(にはとことん突き詰めれば論理的な理由など無いように思える)の感情を長いこと継続して来ているものは多少はありそうだ。  

1 アンチ巨人

 「アンチ巨人も巨人ファンのうち」の言葉がある。日本のプロ野球がことごとく巨人を中心に回って来たことを考えれば、一面の真理を含んだ、かなり説得力のある言葉といってよいであろうが、「巨人ファンのうち」には入れて欲しくないアンチを自認して憚らない。個々には実力を高く評価している選手や、魅力的な選手もいる(二岡選手などは、まさしく野球の申し子のような優れた野球センスと素質が感じられ、もしも自分が野球チームの監督をするのなら、最も信頼するに足る選手であろうと思われる)のだが、巨人の存在そのものや、体質が好きになれないということなのである。他チームの有力な選手をあきれ返るほど次から次へと引き抜いてくるやりかた(一体、何人の4番バッターを集めれば気が済むのであろうか)や、有望新人獲得のための策謀(かっての江川事件や最近の事件など、枚挙にいとまがないように思える)など、「球界の盟主は何をやっても許される」との驕った姿勢が窺え、嫌悪感を覚えずにはいられない。
 巨人が試合に負けるのを見るのは嫌いではないが、テレビ中継を見ることはまずない。特に、フランチャイズでのゲームでは、アナウンサーの身びいきが過ぎていると思え(20年ほども前に感じたことだから、今でも同じかどうかには確信はないが)、全く見る気がしないから、拙宅のテレビが4チャンネルを映すことは皆無である。親会社が発行する新聞、雑誌の類も同様である。一般紙、スポーツ紙を問わず、まったく読む気がしない。(そもそも、嫌いになったのは巨人が先か、親会社が先かといったこともあるが、この間の事情は省略する)。従って、巨人軍も親会社が発行するものも、小生にとっては、この世に存在しないのと殆どイコールである。巨人が負けたニュースには多少は喜ぶのだから、その意味では、小生の内にある世界には野球チームの巨人は僅かに存在しているということになろうか。自分でも偏屈だとは思うが、嫌いなものを無理に好きになる必要はないし、自分だけのことだし、特にこれで困ることもない。
 とはいっても、もう20年にもなるだろうか、衛星放送で大リーグの試合がよく放送されるようになって野球の醍醐味を味わえるのはやはりメジャーだと認識させられた頃から、日本のプロ野球にもそれなりの面白さはあると思うものの、ほとんど魅力を感じなくなっていたし、野茂投手がメジャーリーガーになった頃からは、一層日本のプロ野球が自分にとって興味少ないものになってしまっているので、今更アンチ巨人と言ったところで大して意味のあることではないのだが・・・。  

2 スーツとワイシャツ

 大学を卒業するまでは、スーツを着用して大手町界隈に勤務するなぞ、夢にも思っていなかったのに、金融機関の職員になってしまった。その時、スーツはサラリーマンの制服みたいなものだからいつもきちんとしていなくては、と思った。最初の背広は親が作ってくれたが、以後は自分で調達しなくてはならない。デパートに行って体に合うものを買えばいいとは思ったものの、衣服に関する知識は皆無であるし、積極的に覚えたいとも思わなかった。必要だから誂えに行くが、ちっとも楽しくは無く、むしろ苦痛に近かったのである。しかも、新人の頃のスーツは現在に比べればはるかに高価なものであった。ボーナスの時期にしか誂えることが出来なかった。高い金を払って、後から気に入らなくなるようなものでも困る。売り場に行けば、「どんな色で・・」などと必ず聞かれるに決まっている。毎回迷うのも嫌だし、せめて色だけは決めておこうと考えた。その時に、ドブネズミ・スタイルということになるのだろうが、スーツの色は紺、ワイシャツは白無地と決めた。「ワイシャツの語源はホワイトシャツなのだから本来白が正しいのだ!」などと、ちっとも力む必要などないことなのに、遥かな空の彼方を見上げて「これで行くぞ」というような気分になったりしたのである。

以来30数年、これで通してきた。スーツとワイシャツの色を決めておくだけで、それを買いに行くときの気持ちが楽だったことは間違いない。紺のスーツで適当なものが無ければ、店員は別のものを勧めるが、迷わず「ノー」と言うことが出来たのである。ある時、「毎日同じスーツを着ていると思った」と職場の同僚に言われたことがある。23日ごとに替えているスーツだったが、代わり映えは全くしなかったのであろう。同僚の発言も無理からぬことであった。あと数年で自分のサラリーマン生活も終わるだろうが、最後までこれで行こうと思っている。ついでに申し上げれば、ステテコ、モモヒキも着用しないと決めている。オジンくさいというのが理由だった。今や、ステテコ、モモヒキなど着用に及ばなくても立派なオジンになってしまっているのだが・・・。  

3 筆記用具

 社会人になって、システム部門に配属された。システム化の企画書や設計書・仕様書など、紙と鉛筆で様々な文書を作るのが仕事だったと言えよう。職場には勿論必要な文房具は用意されているのだが、好んで使いたいと思えるものは無かった。毎日、しかも長時間付き合う筆記用具だから、自分が気に入ったものを使いたいと思った。職場に備えてあるものを使わなければ、自分で調達するしかない。国内外の鉛筆、シャープペンシル、消しゴム、テンプレート、字消板、定規などを何種類も買い込み、使い勝手を試したのである。

 筆記用具で一番好きなのは鉛筆である。国内にも優れたものはあるが、なんと言っても、シュテットラー、ファバー・カステル、シュワンなどドイツ製の鉛筆の使い勝手が良かった。とりわけ気に入ったのは、シュワン・スタビロ・マイクロ8000番の「B」の鉛筆であった。滑らかな書き心地は、圧倒的に他を凌駕していた。中学生の頃(おお、なんと40年以上も前のことだ)、国語の教師に「芯の硬い鉛筆を使うと頭が固くなる」と教わったことがある。盲目的に教師の教えを信じた訳ではないが、様々な鉛筆、シャープペンシルを試してみても「HB」よりも「B」のほうが自分にとっては書き良いのである。軟らかい芯は硬いものに比べて減りが早いという欠点はあるが、以来、鉛筆とシャープペンシルの芯は、「B」一点張りである。もしかしたら、40年前に刷り込みが成されてしまったのかも知れない。

 銀座の伊東屋で数ダースのシュワンの鉛筆を買い込み、職場で使い出した。やや明るい臙脂色の鉛筆には、金の白鳥がプリントされている。朝、10本程の鉛筆を削ると木の香りが心地よく、これをペン立に入れると、難儀な仕事に一緒に立ち向かってくれる心強い兵士達が出番を待っているような、そんな思いがしたものだった。そうしてしばらく経った頃、鉛筆の本数が減っていくことに気付いた。職場の同僚たちが、ペンケースから持って行って使っているのであった。職場で用意したもの、と皆思っていたのである。同僚に使ってもらうことに不満はないが、無くなるたびに伊東屋から仕入れてきて補充しているのでは、小生の懐がたまらない。そこで、鉛筆をペン立に置くのは止めてしまった。以後、スタビロ・マイクロ鉛筆は専ら自宅で愛用することとしている。

 そうして使い出したのが、パーカーのシャープペンシルである。20年以上も前のことだが、神田のディスカウント・ショップで1550円で買うことができた。型番など分からないが、エボナイトの軸に銀色(勿論ステンレス製)のノック式のキャップが付いたもので、クリップ部分はパーカー特有の矢羽根である。5mm芯のシャープペンシルだが、どんな構造になっているのか、芯が非常に折れにくいのである。ひところ流行った100円シャープをはじめ、高価なものであっても芯が折れ易いものが多いように思える中、安物のパーカーの丈夫さは特筆ものと思う。色は3種類あるが、深みのある青のものが断然良い。軸の太さも、ペンの重さも小生の手にとても馴染が良く、これにペンテルの「B」の芯を入れたものが最高・最強のコンビである。1550円(最近は600円になっているようだが)だからうっかり壊したり、失くしたりしても左程は惜しくない。廉価で酷使に耐え、まさしくシャープペンシルの鏡である。これを、職場に1本、鞄に1本、自室のペン立てに1本、居間のペン皿に1本、子供たちの机にも1本ずつ、机の引き出しには予備軍数本と、あちこちパーカーのシャープペンシルだらけである。廉価で健気に働くシャープペンシルだが、さすがに45年も使い続けると、芯が出なくなるなどのトラブルに見舞われ寿命が尽きてしまう。小生の酷使に耐え、名誉の戦死を遂げたパーカーは78本にもなるだろうか。

 シュワン・スタビロ・マイクロ鉛筆やパーカーのシャープペンシルばかりではなく、万年筆はモンブランが使い心地良く、赤の色鉛筆ならファバー・カステルの117番が断然だし、消しゴムならトンボMONOのプラスティック・イレーサーもなかなかの優れものである。文房具については、自分が気に入ったものを使う、ということにこだわってきたように思える。  

4 未熟な自分が・・・

 他にも、110本余りを喫するタバコはハイライトのみである。喫煙し始めてから30年余、ずーっと同じである。他のタバコは美味くないからであり、それ以外の理由はないのだが、ハイライト以外のタバコは一切吸わないのだから、こだわりが無いとは言えないのかも知れない。好きなクラシック音楽も、聴くのは殆どがモーツアルトであり、カール・ベームかジョージ・セルが指揮する演奏に著しく偏っている。中には、聞きたくない演奏家や団体もないではない。誰々は絶対に聞かないということはある種のこだわりだと思うが、単に偏屈な好き嫌いが理由であるのだから、自分の心の狭隘さや幼児性がその底辺には存在しているのだと思う。毎週のように買い続けている馬券も穴狙い一辺倒であるから、これもこだわりの内と言えるかもしれないが、射幸心の表れであるのだから、決して胸を張って居られるというものではないだろう。

 かくのごとく、「私のこだわり」を拾い上げていくと、深遠な哲学やポリシーといった高い論理性や説得力をもつものとはまるで正反対の、自分の未熟さ、浅薄さ、心の狭さ、頑迷さ、スケベ根性などがあぶり出されてくるように感じる。恥ずかしいから、この辺で止めておこうと思う。(2004.9.28



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