リラックス法、ストレス解消にまつわること
大辞林によると、リラックスとは「くつろぐこと。ゆったりした気分になること」とある。日常生活において我々が受けているストレスや緊張感から開放されること、そのために自分はどんなことをしているだろうか、してきただろうか、と考えてみた。
1 学生時代、野球の試合のこと
中学、大学、それに社会人になってからも野球部に籍を置いていたから、10年ほどの間、様々な相手とたくさんの試合をしてきたことになる。公式戦となると殆どがトーナメント方式での戦いだったから、負ければ後がない状態で試合をすることになる。“あがる”という言葉があるが、「勝ちたい」あるいは「負けられない」との思いが強いほど、緊張感が高まり、地に足が着かず、平常心を失った状態になってしまい、持てる力が十分に発揮出来ないことも起き易いように思う。上手な選手が緊張の余り、信じられないエラーやボーンヘッドを犯す場面を幾度となく見てきた。試合に及んで、チームメイトから「あがってしまう」とか「試合が始まるまでがたまらなく嫌だ」というような発言も何度も聞いたことがある。人によっては、深呼吸を繰り返すとか、水を飲むとか、応援団席は絶対に見ない、など、リラックスや緊張感を増幅させないための手段を講じている者もいたように思う。
自分は普通にやってもエラーをする下手糞な選手だったから、上手な選手と比較するのは論外だが、試合に及んであがってしまったとか、緊張でガチガチになってしまったという記憶はほとんど無い。監督やチームメイトからも「お前はあがらない選手だ」とよく言われたが、多少は鈍いとしても、人並みに緊張はしてはいてそれなりに不安もあったのだが、試合に臨んでの緊張感はいつも心地よかったのである。初対戦の投手がどんな球を投げるのだろうか、どんな攻め方をしてくるチームだろうか、どのようにすればまともな戦いが出来るだろうか、とそんなことばかり考えていたように思う。勝ちたいのは勿論だが、勝ち負けよりも無様な試合だけはするまい、といつも思っていたような気がする。
従って、野球の試合に臨んで平常心を保つ為の何かをするということはなかったが、一度だけ突然あがってしまい、とんでもない失態を演じたことがある。中学3年夏の地区大会のことである。緒戦に勝った次の試合だったが、我がチームがかなりリードしており勝利が見えかかっていた時である。ワンアウトで、自分の前の打者が1塁に生きた。ここは当然、ヒットエンドランか盗塁のサインが出る場面である。そう思いながらネクスト・バッターズ・サークルから打席に向かおうとした時のことだ。全校生徒が応援にきているスタンドから自分に注がれているA嬢(仮にこうしておきますが、同期の女性です)の祈るような視線を感じたのである。Aさんには、容姿や学業成績のこともあるが、田舎の中学生とは思えないアカ抜けた雰囲気があり、自分達とは次元の違う世界にいる人のような気がしていたのである。余り体も丈夫でなかったとの記憶があるが、原田康子の小説(例えば「北の林」)のヒロインのような印象のある女性と言えば感じが判って頂けるだろうか。自分は特別な感情を持っていた訳では全く無かったが、異次元の人が自分達と同じレベルに降りてきて応援してくれていることが俄かには信じ難いことのように思え、なにかドギマギする感じだった。思わず我を忘れ、「打ってやる!」と力んだ。いきなり初球を強振し高々とセカンドにフライを打ち上げてしまったのである。10年ほどの野球部生活でサインを見逃したり、間違ったことはこの時以外には無いのだが、セオリー通り盗塁のサインが出ていた。スタートを切っていたランナーは、「あわわ」といった様子で1塁に帰塁した。「話が違うではないか」と怒っていたに違いない。血の気が引く思いでベンチに戻り、怖かった監督に謝ったが、怒られるよりも、「お前ほどの生徒が・・」と呆れられてしまったのである。
2 講演などの仕事のこと
自分は人並みには(もしかしたら人並以上に)緊張するタイプとは思うのだが、回数は多くないとは言え、役員達がズラリと並んだ中で業務計画について説明をするだとか、あるいは、これも仕事で、大勢の人達を前に例えば経済や金融の見通しについての講演をせざるを得ない局面に立ち至った、等のことがあった。同僚や部下からは「全然固くなる様子が見えない」とか、「2〜3人を相手にしゃべるのも、2〜300人を前にして話すのも全く変わりませんね」などと言われたことがある。勿論、ことに到って緊張や不安が無い筈は無い。緊張や心配な点があるだけ、報告することや話すべきことを整理し、説明のストーリーを作り、暗記出来るほどにも反芻するのである。こういった状況に向かう自分なりのリラックス法があるとすれば、これだけである。大勢の前で話すときに“あがらない方法”として、聴衆をキャベツか南瓜と思うだとか、掌に人という字を書いてそれを飲み込む仕草をする、だとかのことを何かで読んだ記憶もあるが、そういうことはしたことが無いし、しようと思った事も無い。自分の場合、却って緊張度を強めてしまいそうな気がする。
報告すべきこと、話すポイントを何度も確かめ、理解され易い説明の組み立てがどうすれば出来るかを考える。そして、どんな質問が出るだろうかということも一応シミュレートしてみる。あいまいなところは無いか、裏づけデータはあるか、と時間がある限り吟味してみる。時間切れで準備が十分出来ない場合もあるが、そこを突かれたり、想定外の質問や議論になってしまった時には、「馬鹿」と言われようが、「お粗末」とお叱りを頂戴しようが、「即答が出来ないので時間をください」だとか、「ここまで詰めたけれども、そこまでは考えていませんでした」と正直に言おう、と腹を括る。こういった方法でこれまでに失態を演じたことはなかったと思うが、心優しい人達にお目こぼしいただいていたこともたくさんあったに違いないとも思うのである。
3 バッハ イギリス組曲第3番
30年余のサラリーマン生活の中で、何人もの上司に仕えてきたが、鷹揚な人、鋭い人、小賢しい人、無責任な人、小難しい人など、様々な人がいた。だいぶ前のことだが、見識も深く、強い信念を持った人ではあるのだが、仕事には厳しく、とても細かいことにまで注文が付く人で、激しいところもあり、余り人に好かれるタイプではない人が上司だったことがある。業務計画や報告書などに関して、一度でOKをもらった記憶は無い。期限については如何なる理由があろうとも死守するのが鉄則であり、文章表現のクセは改めさせられるし、用語の繰り返しを嫌うし、“てにをは”についても徹底的に注文がつく。内容に文句がない場合でも「用紙に書かれた位置取り、バランスが悪い。黄金分割のルールを知らんのか」というような指摘まで受けたことがあった。いろいろな指導を受けて勉強になることも多々あったし、決して嫌いではなかったが、やや「かなわんなぁ」との気持ちでいたことは間違いない。「おれのことを細かい奴と思っているだろうが、家庭ではもっと細かいのだ。奥さんに比べたら君などまだ楽なほうだ」と言われたこともあって、「私はあなたの細君ではない。職場と家庭を同一に論じないで欲しい」と心の中でいつも反駁していた。
その時期で、課題山積の中で連日深夜まで仕事をし、納期を守る為に突然職場に泊り込むことも珍しくない日々が続いていた時のことである。土曜日に遠隔地でのゴルフが予定されていた。自分は自家用車を持っていない。当日の朝、公共の交通機関を利用したのでは到底プレー開始に間に合わせることは出来なかった。こういう時は、前日から現地に泊り込むのが自分の習慣である。金曜日の夜、「やれやれ」という思いで職場を離れ上野から特急に乗ったのである。早速CDウォークマンを取り出し、バッハのイギリス組曲第3番をセットした。演奏はポルトガルのピアニスト、マリア・ジョアオ・ピリスである。あの歯切れの良い第一楽章の主題が、“タッタタッタ、タッタララララ”とイヤフォンから聞こえてきた時、背中から滓のようなものがスーッと抜け落ちていくように感じた。明確に意識はしていなかったが、かなりのストレスを体は感じていたのだ、と今更のように思ったものである。
4 モーツアルトの音楽
バッハのイギリス組曲だけではない、好きなクラシック音楽を聴くことは自分のストレス解消やリラックスのために随分役に立ってきているものと思う。なかんずくモーツアルトの音楽には随分慰められ、癒されてきたように思う。少し疲れたと思う時には、モーツアルトを聴くのが慣わしのようになっている。最も近頃はモーツアルトを聴く前にソファでだらしなく眠りこけてしまうことが多いのだが・・。
ちょっと悲しいなと思える時には第28番ホ短調K304のヴァイオリン・ソナタを、暗い中から光明を見出したい気分の時には第4番ト短調K516の弦楽五重奏曲を、苦しい時には「レクイエム」ニ短調K626を、元気を出さなくてはと考える時にはヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K219「トルコ風」や第14番ト長調K387の弦楽四重奏曲を、優しい気分になりたい時には、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調K364や交響曲第39番変ホ長調K543を(これはジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団のものに限ります)、何も考えたくないと思う時にはピアノ四重奏第1番ト短調K478を、現実の猥雑さにうんざりしている場合にはセレナード第13番ト長調K525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」や、第11番イ長調のピアノ・ソナタK331を、などなど、その時の気分によって曲と演奏家を選んできた。かさかさに乾き、ささくれ立った心に、モーツアルトの音符の一つ一つが沁み込み、潤いを与えてくれる。いかなるときでもモーツアルトは自分と同じ側にいて、自分の苦しさ、悲しみ、辛さ、鬱屈を受け入れ、一緒に悩み、そして慰め、時には励ましてくれるように感じるのである。
同じように、ベートーヴェンの音楽にも随分慰められ励まされてきたように思うが、モーツアルトとは正反対で、自分の前に立ち、「本当の辛さ、苦しみはまだまだこんなものではない」だとか、「そんな及び腰ではいけない、もっとしゃきっとして頑張るんだ」というように、説教されたり、背中をどやされるような感じがある。したがって、かなりの疲れを感じている時には、ベートーヴェンの音楽を聴くことには耐えられないことがある。ただ、度々ある事ではないが、大きな衝撃を受けたり、心身とも疲れきってしまい精神的に本当に参ってしまったような時には、流石にモーツアルトの音楽を以ってしても救われないことがある。いつもなら切々と自分の体に染み込んでくる筈のモーツアルトの音符が、皮膚に弾き飛ばされ、粉々になって散っていってしまうように感じることがある。安倍公房の「他人の顔」に、精神的に強い衝撃を受けたために、主人公が聴き馴染んだバッハの音楽が全く違うものに思えるという場面がある。何十年も前のことだが、ここを読んだ時、「作者はよく判っている」と思ったものだ。モーツアルトでもダメな時には、もう何も考えずにひたすら眠り、少ぅし気力を回復してから、また自分を元気付ける努力をすることとせざるを得ないのである。
私のリラックス法、ストレス解消術を言えば、このところ破門状態だが河野教室での気功だとか、クラシックのコンサートに行くこと、椎名誠のスーパー・エッセイを読むこと(最近はこれだが、その時々により漱石の「坊ちゃん」だったり、北杜夫や開高健のエッセイだったりした)、ビリー・ワイルダーの人情コメデイを見ることなども挙げられるように思うし、土日の競馬場通いもそれに相当すると思うが、これらについては機会があればまたいつかご報告のこととしたい。
(2005.1.25)
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