安らかに 新田さん       瀬川 滋

                     
 私は'67年春、大学時代に制御理論を専攻していた関係で、制御用システムのSE志望で当時国産コンピュータNO.1だったNECに応募・入社し、希望通り制御機器事業部に配属されました。しかし、入ってみて分ったのですが、NECという会社はビジネスシステムには強くても制御システムには強くなく、配属されたその部門は、沢山いた制御系の技術者が汎用コンピュータのシステム開発部門に移籍した後のもぬけの殻状態でした。新田さんはこの移籍者の中におられ、私が入社した頃には電電公社のシステムの開発を指揮しておられ、そのお名前は全社に轟ろいていました。私も、そこで暫く制御用コンピュータ(プロコン)のOS開発を担当した後、プロコンに見切りをつけて、後を追っかけるように鉄鋼分野のシステムエンジニア(SE)に転じました。

 移籍後も、新田さんはNTT担当、私は民需ということで、仕事上のお付き合いは全く有りませんでした。そんな中、制御機器事業部OBによるスキー旅行が企画され、ご一緒しました。その時、新田さんは担当の開発の仕事が超ピークで2連徹に近い状態の中で参加されたのですが、昼間に目一杯滑られた後、「折角来たのだからナイターもやるんだ」と、ニコっとサラっと言って出かけていかれました。あの時の人並み以上に強靭な新田さんが、目に焼きついています。

 その後も、会えば会釈はし合いましたが、特に仕事の関係も無く殆ど付き合いの無いまま、私は関西に転勤しました。'85年頃だったと思いますが、私が大阪から東京に出張した折、新田さんが入院されておられると聞いて、病院にお見舞いに伺ったことがあります。その時は体調が良かったのでしょう、初めて結構長時間、プライベートなお話をしました。その折り、私が関西で纏め上げた仕事に対して、大変なお褒めを頂いたのを覚えています。

 その後、私は東京・関西を3往復し、新田さんも海外に出られたこともあって、お話する機会は全くありませんでした。ただ、確か'05年頃だったか一時帰国された折りに、辻さんとご一緒に会食をしたことがあります。その時の新田さんのお話で非常に印象的だったのが、ビジネスマンの米国内での東・西および日本との比較の話。仕事振りから時間の過ごし方、成果の求め方など全て対照的で、その象徴が服装に現れている。即ち、西海岸はカジュアルな、東海岸は明るい色の、そして日本はグレーか濃紺のスーツというような話でした。言い得て妙、その後この服装の違いについての話は他でも聞いたことがありますが、初めてだったのでとても鮮明でした。

 また当時はTV会議の走りの時期で、NECでは役員会を海外も含めてTV会議で行っており、新田さんは米国からこれに参加しておられました。当時の国際回線の速度は十分では無く、海を越えて映し出される画像は未だスローなストップモーションだったそうです。新田さんが行っておられた会社は当時まだ業績が良くなく、役員会で業績の話が出ると建前上頭を下げなければならないが、向うで普通に下げても日本の画面では下げる前と下げた後が写って、結局下がったところが写らない。そこで、頭を下げたら暫く下げたままジッとしておくコツを覚えたと、愉快そうに話しておられたのを思い出します。その後帰任されてからも、私が関西、その後四国に移ったこともあって、お話しする機会は全くありませんでした。

 この研究会で私は、本来は「経営と情報通信」というコアテーマで喧々諤々やらねばならないのに、趣旨に則った発表を行ったのはたった1回で、むしろ自分の趣味の発表の場のように使わせてもらっているのですが、新田さんは帰国後はよく発表もしておられ、私は、このHPへのご寄稿を拝見するのを楽しみにしていました。いや、私よりも全くお会いしたことの無い家内が新田稿のファンだったと言えましょう。なかでも、ご自身の闘病記から伝わってきた「癌と共棲される精神的な凄さ」には、とても他人では真似の出来ない迫力を感じました。いつだったか、東京のある会議で偶然お会いした時も、喉にハンカチを当てて私との受け答えをしておられましたが、それがいとも自然に、何てこと無いという風情で話しておられたのがとても印象的でした。

 昨年2月の研究会で、私は、予てからお尻を叩かれていたライフワークの山登りに関する発表を、「私の山と日本百名山」というタイトルで行いました。その時、新田会長にもご出席頂き、発声も不自由ななか積極的に質問もして頂きました。お身体が大変でもあり、近年は山どころでは無かったとは思いますが、そんな中で質問までして頂いたのです。その質問が「ところで日本には、山といえるものはいくつあるの?」というもので、私もいささか慌てました。とっさに「日本地理院で山と認定されたものが一応山と言え、その数は定かでは無いが、多分数万はあると思う」と答えましたが、毎月のように登っていても、海抜4mの大阪・天保山も認定されているということで、その数なんてことで気にもしてなかったことを質問された辺り、さすが新田さんと感心しました。早速、帰神してから三省堂の日本山名事典でその数を確認すると収録数約2万5千とあり、概ね正しかったなと冷や汗を流したものでした。新田さんとお会いしてお話ししたのは、結局この研究会が最後ということになります。

 このように、新田さんとは入社した頃からずっとお付き合いがありながら、ご一緒に仕事をしたことは無く、またお会いしてもゆっくりお話することは殆ど無く、「つかず離れず」の関係でありました。しかし、ネットでは再々お会いしており、正にバーチャルな関係であったと言えましょう。そんな私の新田観は、色んな人が共通して言われている「剃刀のように切れて明晰」に加えて、私が直接感じ取った「人並み以上の精神力」、華奢な身体付きには似つかわしくない「精神力に裏打ちされた強靭な体力」、そして晩年の「やはり精神力に裏打ちされた、壮絶なまでの生命力」ということが出来ようかと思います。

 バーチャルなお付き合いが主でしたが、この世におられない今ではそのお付き合いも絶たれてしまい、非常に寂しい限りです。新田さん、長年に渡る闘病、本当にお疲れさまでした。これからは、その苦しさから開放され、ゆっくりして頂けると思います。どうか、久々の安息をゆっくり取って頂きますように。ご冥福をお祈り申し上げます。 (合掌)

                      
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