新田さんの思い出       高嶋 宏尚

                     
 新田さんに初めてお目にかかったのは、一橋大(当時)の今井賢一先生を話題提供者にお招きした昭和5912月の研究会だったから、20年も前のことだ。柳下さんの勧めで、研究会におそるおそる顔を出してみた時であった。今井先生のネットワーク社会論も私にはチンプンカンプンだったが、それ以上に驚いたのは、先生が提供された話題を会員諸兄がいとも容易く理解し、質問をしたり自分の意見を披露したりしていることだった。「なんと言う人たちだろう」と思った。同じようにシステムに関する仕事をしていながら、自分など遠く足元にも及ばぬ知性と見識を持った人達。その中で、長身痩躯、穏やかだがよく通る声で意見を述べ、ネットワーク社会の背景を語られるなど、研究会をリードしていたのが新田さんだった。先生の話についていける会員も凄いが、その人達をリードしておられた新田さんをどのように表現すべきなのだろうか。「雲の上の人」、自分にとっての新田さんはまさにそのような存在であった。

 自分はしょっちゅう研究会を欠席する不埒な会員だったが、何回か参加しているうちに、新田さんが研究会の会長で、日本電気に勤務されており、若い頃に胸を患ったことがあり、何回か体にメスを入れられたこともある人だ、というようなことを知った。研究会でお目にかかる新田さんには、そのような病歴などを感じさせられる所は微塵も無かったのだったが・・。

 10年以上も前のことである。研究会の定例会は、学士会館のコース料理をいただくことから始まる。当時は、今日のように喫煙可能な場所が限定的な時代ではなかった。テーブルには、当然のように灰皿が置かれていた。新田さんが出席されている時には会場の席での喫煙を避けるようにしていたのだが、あるとき食事が終わって、ついうっかりタバコに火を付けてしまったことがある。その時、コの字型の座席の対角線上に座っておられた新田さんが激しく咳き込まれた。「しまった」と青ざめる思いで慌てて火を消したが、部屋の空気を汚してしまったのは何とも言い訳の出来ないことであった。勿論、その時に新田さんが何かを仰った訳ではないが、今思い出しても申し訳なく、恥ずかしさのあまり体中からどっと汗が噴出してくる。819日のお別れ会では、改めてご霊前にお詫びを申し上げたのだが、新田さんは愚かな若輩者がしたことを許してくださるであろうか。

 1311月から暫らくの間、「ヨレヨレ日記」と題したシリーズ稿を研究会ホームページ(HP)に掲載したことがある。その当時に業務上の付き合いがあった情報ベンダーや人材派遣会社、ソフトウェア会社の余りの無責任さに腹が立ち、いずれも世に知られた大会社であるにもかかわらず何たることかと、批判的なことを書いたのが切っ掛けであった。紙面を汚してはいけないと気を付けつつも、所詮はいわば小生の繰言である。こんな独り善がりの詰まらないもの、誰も読む気がしないものだと思っていた。ところが、ある日の研究会で新田さんが傍に来られ、「お忙しいと聞いていたが、結構いろいろなさっているのですね」と仰ったのである。確かに夜昼無いほど業務多忙の時期ではあったが、日曜日に竹内浩三の本を探しに神保町の古本屋を巡ったことを書いた時だった。「あゝゝ・・。はい」と、答にもならない返事をした記憶がある。ガラッパチの青二才の繰言を新田さんが読んでいて下さったんだと、驚きと恥ずかしさの気持ちで身の縮む思いであった。

 HPで特集を企画した時には、新田さんは必ず寄稿して下さった。特集担当としてはいくつ原稿が集まるかが毎度の心配事であるが、新田さんからはいつも原稿が頂けるものと勝手に計算していた。「つまらないテーマを設定して」と思われたこともあるのではないかと思うが、毎回、格調高い原稿を書いて下さった。編集子にとって、これほど有難いことはなかった。153月の「私の健康法」の時には、何時入院が決まるか判らないという状況の中で書いて下さった。「大掛かりな手術になる筈だが、不安はない」と書いておられる。26年間に18回の手術と伺ったが、入院・手術の度に回復されて研究会にお元気な姿を見せて下さっていたから、何時だって、また元気な姿に接することが出来ると思い込んでいた。新田さんの「私の健康法」を改めて読み返してみると、よくもこれだけ凄まじい闘病の生涯を送ってこられたものと思うし、しかもそのことを周囲にあまり感じさせることがなかったように思う。手術により発声が不自由になってからでも、ご自分で車を運転してきて研究会に参加されていた。穏やかで知的な風貌のうちに、まこと不屈の意思と魂を持った人であると、深く頭を垂れざるを得ない。「私の健康法」にはご自分の経験を踏まえた健康維持のための注意事項が記されている。新田さんからの貴重なメッセージであると思う。

 819日のお別れの会では、ガブリエル・フォーレの「レクィエム」が流された。「新田さんが好きだった曲」と、進行役からの紹介があった。モーツアルト、ヴェルディ、ベルリオーズ、ケルビーニなど多くの作曲家が「レクィエム」を作っている。その中で、フォーレの「レクィエム」は、とりわけ清潔感に満ちた音楽である。新田さんらしいと思った。平凡な人生にも、山谷があり波乱があるものだ。ましてや、病を克服しながら日本を代表する企業の経営を担っておられた新田さんである。凡人には想像もつかないような悩みや苦しみなどもあったに違いないと思うのだが、豊かな知性と暖かい人間性を持ち、自らの道を切り開いていく強い意志と実行力を備えた懐の深い人であり、世俗的な欲や名声を求める気持ちといった虚しいものとは無縁の人との印象であった。新田さんから受ける清潔感には、特別なものがあったように思う。知性においても、人間性においても、また芸術を理解し愛することにおいても、凡庸な人間には及びもつかぬ遥かな高みにあって、清々しい生涯を実践された人なのだと思う。後輩の我々が学ぶべきは、まさにこのことなのだと思うのである。                   (17.9.27


 特集企画 目次へ