「心の兄」への感謝と思い出 辻 淳二
新田謙治郎さんがお亡くなりになって一月余り経った今でも、フト心に空洞ができたような淋しさを感じることがあります。自分の人生の中で、「親しくお付き合いさせて頂いていることで、心が満たされている」と強く感じていた方だったから、当然のことではあるのですが。
従って、「感謝と思い出」といえば、限りないほどあります。当研究会でのご縁だけでも、研究会をスタートさせた約二十年前に「ご迷惑やご負荷をお掛けしないようにしますから」と固く約束をして会長をお引き受け頂いて以来、会合へのご参加でも、ホームページ(HP)への投稿でも、実に懇切にお心に掛けて頂いて、ズシリとした実質を伴って会の求心力としての役割を果たして下さいました。事務局を担当していて何より嬉しかったのは、こうした動きをご自身も楽しみながらやって下さっていたことです。その一つ一つを思い出して語り合うだけで、長時間に渡って充実した会話ができることでしょう。
そこで、編集部の「追悼特集」の企画に接し、どういう切り口で書くかをしばし考えました。そして結局、私が「新田さんへの感謝と思い出」を詠んだ短歌(先月号HPの「創作」欄に登載)の一首ごとに、その歌の背景になった「ご縁」を書かせて頂くことにしました。それも、新田さんご本人に語りかける文体で。
就職の相談に行きその日より兄事し四十年幸せなりき
同じ学科の一年先輩で、長身かつ同年次のリーダー的存在でおられたから、大学時から私には新田さんのお顔が見えていました。この時点ではまだ直に接する機会はなかったので、新田さんには、私の印象はなかったのでは。実質的な出会いは、私が四年になった秋、就職の相談にNEC社員となっておられた新田先輩を会社にお訪ねした時でした。その時に新田さんは、新入社員の身ながら、川ア製鉄・千葉製鉄所に納める「鋼塊焼き上がり時間予測装置」(後に、同社が、同装置を含む「分塊工場生産管理システム」にて産業界で優れた技術開発成果を表彰する大河内賞を受賞したほどの、先駆的なもの)をNEC側の実質リーダーとして担当し、日夜その実現のために献身的に働いておられましたね。私から見ると「新入社員で、どうしてそこまで仕事ができてしまうの」とびっくりするばかりでしたが、お客様や社内の期待や支援を一身に集めて充実した日々を送っておられるのがヒシヒシと伝わってきました。(この初仕事については、新田さんご自身による寄稿「私の新人の頃」を本HPの「特集企画」欄に登載)
私はそこで、自分にはそんなことができるとは到底思えないまま、こんな先輩が居て下さることは何より心強いと、NECへの入社を決めたのでした。そしてこれが、以来四十四年の長きに渡り親密にお付き合いさせて頂く起点になったのでした。世の中に、先輩―後輩の深い縁というのは多岐多彩にあると思いますが、その中でも、新田さんと私のご縁は、この十一年後に私がNECから脱藩するという曲折を経ても変わることなく(むしろ、関係が立体化し、一層深まったとの感が私の方にはあります)、私の意識では、単に先輩―後輩というよりはもう一歩懐に入って、まさに「心の兄」と慕いつつ近くに居させて頂いた、この上なく稀有なものだったと、今あらためてその幸せを痛感しています。それが、当初は富士通志望だった私が他の友人と重複したためNEC志望に切替えた結果だったのですから、私はこの上なく“幸運の星”に恵まれた人間ということになりますね。
小さき場に転じたる我の今あるは頼れば応えし兄の支えありて
私のNECにおける初仕事は、新田さんの指導の下で同社では初めての「制御用コンピュータの開発」に加わり、設計の一部、単体から総合に至るテストの分担、市場に出せる商品としての仕上げのための諸作業を担ったものでした(これの詳しくは、別稿=当HPの特集企画「私の新人の頃」欄を参照)。この仕事は、新田さんの直属の部下として多くを学び、苦楽も共にし、「仕事とは、自分で考え、自分で動いて、クリエイティブに仕上げて行くもの」と体感し、その後私がビジネス人として自立していく上で大きな支えとなった体験でした。そこには、当のコンピュータが、設計や製造段階のミスや調整不十分で未熟児のようだった状態から、一つ一つ欠陥を正し問題点をつぶしていくと、心臓の鼓動が脈打つように目に見えて蘇生して行って、完成が見えてくるという「もの造りの感動」がありました。また、納期が間に合わなくて、新田さんのチームと私のチームが2つに分かれた昼夜兼行でテスト工程を追い込んだ「体力勝負」の場面も懐かしく思い出すことができます。
その後は、徐々に部署も仕事も離れていって、私の方が入社十一年にしてNECを退職することになりましたが、この間も折々に接点はあって、私の転進についても決断する前から相談もさせて頂きました。情報システム畑の専門職として「これが、かけがいのない経験だった」と後に腑に落ちて知る“お客さま満足”とか“直面した難問の解決に向う時の取組み姿勢や技術的な工夫”とかに関わるエッセンスの体得は川崎製鉄水島製鉄所創業期の「分塊・厚板工場操業管理システム」のプロジェクトリーダー時代にNECでさせて貰っていたのですが、「この世界は、一メーカーという足場から見ているだけでは全体が見えない」との思いが募って、ソフト業界への転出へと気持が傾いていたのでした。NEC社内で、そのことを決断する前から話し、相談をしていたのは新田さんだけでした。そして、お立場的にも社会風潮的にも止めるのが常識だった中で、じっくり話を聞いて下さって「前向きの支持」を下さったことが、私の転進への強い後押しになったのでした。
その後、私が転進先の日本能率協会グループに在籍した十年間は、時に、新田さんはハードメーカー、私はソフト業の、それぞれの側から情報を持ち寄っての交流をさせて頂いていました。そして、私が次なる転進、自分のコンサルティング事務所を立ち上げる決意をし、その準備として後に『情報戦略のこころ』という書名で出版する本を意識した業界雑誌への連載寄稿に力を入れ始めた頃から、接触の密度が急速に深くなっていきました。結果的にこの本は、業界雑誌への連載を6稿×2回、計12稿を上記の書名で束ねて出版(企画センター刊)の運びとなりましたが、新田さんには、NECの側から見て新鮮な見方/内容が随所にあることを認めて頂いて、雑誌が出る度に最新稿について感想/助言を頂き、また次に向かって励まして頂くという、何とも忝い後押しをして頂いたのでした。
この本が出版されたのは、私が事務所((株)辻システム計画事務所)を立ち上げて2年目でしたが、これは結局、我が事務所がお客様から仕事を頂くための“セールスツール”の機能を果たしてくれました。その中で、NECに向けては、新田さんが当時事業部長をされていたシステム事業部門を中心に、さまざまなビジネス機会への導きをして頂き、「当時のご支援なくして私の今はなかった、足を向けて寝られない」と心底から今でも思っています。その時期に、相談して応諾して頂いた件について、次の日の朝一番にさっと手を打って下さる「スピード対応」は見事なもので、特に印象深く覚えています。
この本が出版できてのお祝いだったか、新宿の「スンガリー」というロシア料理店で新田さんと氷点のマイナス14度近くに冷えたウオッカをボトルで注文して歓談したことがありましたね。話は弾んで、二人とも上々の機嫌で、9時過ぎに新宿駅の地下道でお別れした所までは、私の意識は全く正常でした。ところが、そこから京王線の改札口までのたった百メートル程度を歩く間に、頭がぐるぐる回り始めて、ホームに下りた時にはもう電車に乗れる状態ではなくなっていました。仕方なく、醒めるまで駅のベンチ等で様子見し、ようやく落ち着いてきたので乗ったら今度は下車駅を乗り過ごし、終点近くからまた引き返して、深夜になってようやく家にたどりつきました。少し落ち着いて、ハタと気付いたのが、「もともと、私はアルコールに弱い体質で、この日もボトルの十分の一も飲んでいない。その私がこのていたらくだったのだから、いくら強いとはいえ殆んどを飲んだ新田さんはちゃんと帰れたのだろうか・・」ということでした。もう深夜だったので、その日は聞けなくて、あくる朝に電話を掛けました。それに新田さんは、「いやあ、家までは帰れたけど、玄関を入った所で頭がぐるぐる回ってしまって大変だった」とにこやかな声で応対され、それで胸を撫で下ろしたのも、懐かしい思い出です。
兄はいつも人にも我にもやさしかりし問いて知る若き日の病ありてと
長年に渡ったお付き合いを思い返して、新田さんが怒ったり、不快な感情を表に出されたというシーンを全く思い出すことができません。私との間の直にも、誰かとのやりとりを傍で見たという形でも。組織の上に立つ人で、新田さんほど「やさしさ」に深みがあった人は稀有なのではないかとの印象です。NECに入社してから何年か、私の年次には、やや堅苦しさのある組織風土に棹差したい“青っぽさ”もあって、暮れの賞与を貰うと職場の若手層が連れ立って翌日から休みを取ってスキーに行ってしまう、といった類の行動をとって、上司を困惑させていたことがありました。そういう時に、新田さんが同調されることはありませんでした。御用納めの日に、我々は居なくても、新田さんが居られれば収まりがつく。それで年が明けてしまえば、上司ももう、お説教の一つもしたかった気持が失せてしまっている・・。それほど新田さんの存在は大きく、いま思えば我々は“兄貴”の影に隠れてヤンチャをさせて貰っていたと頭が下がる、格の違う包容力を身につけておられたことに思い当たります。この点に関連しては、“この先輩は、どこか、人物の格が違う”と興味を持っていて、ずっと後に私からお尋ねし、新田さんから「いや、もともとは弟妹たちからは“怖い兄貴”と思われていたんだ。それが、高校生の時に結核にかかって病院暮らしをして、変わったんだよ。」と伺って、“目からウロコ”のイメージで納得したことを記憶しています。
兄が会話を学び置かれしが呼び込めり一家の転機をアメリカ赴任で
まだ私がNECに在籍していた後半の時期に、ちょっとした近況交換の機会に、新田さんから「会社が参加を募っていた“期間中、英語しか喋ってはいけない合宿研修”に参加してきた」との話を伺ったことがあります。その時期、私は担当するシステム案件の対応に一杯一杯で、仮にその募集を知っていてもパスしていただろうとその時に思いました。当時、新田さんは会社の命運を賭ける重要案件のプロジェクトリーダーをされていて、私よりも過負荷な状況におられたので、「その時期に、よく合宿に出る気になられたな」と、“器の大きさ”を感じさせられたことを今も記憶しています。その後、ずっと時が経って、新田さんは取締役に昇格され、それまでの情報システム事業畑を離れ、北米事業担当を拝命されました。そして、この転機が、ご夫妻だけでなく、お子様たちにも米国での就学/生活のチャンスをもたらし、ご一家の“生きる世界と選択肢”を広げることに繋がりましたね。米国ボストンへ赴任され、担当事業も好転、ご一家として米国での生活を深めておられるご様子を伺う度に、「あの、まだ若くて忙しかった時期に英会話を学んでおかれたのが、実ったんだ」と、“生きる姿勢の基本”を教えられた思いがしたものです。
兄を慕う人我が周りにも多くありチャレンジ姿勢を継ぎ育みつ
北米事業担当を終え日本に帰任されてからは、その時期から難病のアスペルギルスを発病されたこともあって、余人に代えがたい識見/体験を持ちながら存分に活かすことができず、もどかしく感じながら過ごしておられたのではなかったでしょうか。それでも、NECにては、同社の技術の方向付けを所管する技術顧問役を担われて現役の技術幹部層を牽引しておられたし、会長をお願いしていた当研究会でも、会合へのご参加やホームページへの寄稿などで、その人格/識見に触れて影響を受けた人は多数に上る、という形で、新田さんのチャレンジ姿勢や人柄を継承する流れは、脈々と息づいています。「お別れ会」に研究会メンバーからも多くの参列者があったのを見て、接点は限られていてもお人柄に深い敬愛を感じている人が多かったのだと、あらためて気付かされました。
臆せずに真向かう姿勢が兄の真髄ビジネスはもとより闘病にても
NEC時代に近くで拝見した新田さんは、早くから会社の幹部層に頼りにされ、当時NTTがデータ通信サービス分野への参入の足掛かりとしたTSS(Time
Sharing Service)「科学技術計算サービス」用のOS(Operating
System)の開発プロジェクト等、NECが社運を賭ける重要案件の責任者を任され、それを逞しくやり遂げたことで社内で確たる存在感を確立して行かれたように見えました。その実績と並行して、所属しているコンピュータ関連事業に関する会社としての取組み姿勢や施策等に関し、近寄りがたい雰囲気のあった当時の事業トップ層に臆せずに意見具申しておられたのを側聞し、「これが、新田さんならではの力/強さ」と憧憬の思いを持っていました。私がNECを辞めてかなり経った後に、在籍時にはひ弱だったNECのコンピュータ関連事業がソフト/サービス力も統合した情報処理システム事業となって会社を支える時期を迎え、それを新田さんが事業幹部として率いる製造業/装置工業担当部門が牽引しているのを外から拝見して、「事業組織を引っ張り育てるには、やはり、あの力/強さが不可欠なのだ」と“大会社の幹部となる人のモデル”を学んだ思いがしたものでした。
この「臆せず真向かう」の姿勢は、病気になられてからの闘病においても貫かれていたようですね。お別れ会での奥様のお言葉で知った「18回もの手術」は、まさにこの姿勢がなかったらできなかったことでしょうし、最後となった今年1月の手術も、私は、「去年は全体に体調は良かった。今年はさらに快適に暮らせるように、声が出せるための手術を」と前向きに決断されたものと受け止めていました。その期待は叶わないことになりましたが、闘病にまで一貫されたこの姿勢は見事なもので、私たちに感動と勇気をもたらして下さいました。
病院に家族集いし新年会見舞いて我知る深き絆を
もう十年近く前の、新年の初仕事の日に、広尾の日赤病院に入院しておられた新田さんをお見舞いした時のことでした。時間は午後3時ころ、新田さんは点滴の薬ビンを引き摺って病室を出て来られ、付き添いの奥様ともども接客スペースでお話していた所へ、次々と3人のお子様方が来訪され、そこで、本来ならご自宅でおせち料理を囲んでなされる筈の「新年の顔合わせ」が実現したことがありましたね。当時、長男の治毅さんと末娘の美佳さんはアメリカ留学中で、皆さんが一堂に会されるのは久しぶりのことだったのではなかったでしょうか。その場では、お子様方が次々と近況や新年に向かう抱負などを話され、ご両親がそれに応えるという形で会話が弾み、たまたまお持ちした相田みつをの本などが話題の一助になったりしたこともあって、私もしばらくご一緒させて頂くことになりました。そしてこの場は、私にとって、図らずも、お子様方がそれぞれに生きる道を定めて自立に向かっておられ、それをご一家の絆の深さが支え、これからさらに発展しつつ落ち着いても行かれるのだろうと、ご一家の可能性を感動的にイメージに留める得がたい機会となったのです。
あれから約十年が過ぎ、とうとう、新田さんが冥界へと旅立たれる時が来てしまいました。でも、病と闘いながら生き抜いてこられたこの間のいろいろな接点を通して、お子様方との「世代間のバトンタッチ」は多岐に、入念に済まされていたことでしょう。もう、天からにこやかにお子様方の活躍ぶりを見守って頂くことで十分でしょう。
美佳さんの結婚そして看病を喜びたる兄の安らぎを想う
訃報をお伺いした時の奥様との電話会話で、「5月に美佳さんが結婚式を日本で挙げられ、新田さんが、出にくい声に心を込めて、神殿での親族紹介をお相手方のアメリカ人の親族のために英語でなされ、最後のお礼の挨拶もなさった」と伺った時、ものすごく嬉しく、そしてホッとした思いがありました。1月の手術以降の、自宅で静養される日々の中で、ご結婚の日がどんなにか大きな励みになっておられたことでしょう。昨年、飲み会的な席でご一緒した時に、お相手はいらっしゃるように伺っていましたが、美佳さんはとてもとても大きな親孝行をして下さいましたね。ご結婚を見届け、愛娘の将来をお婿さんに託し、どんなにか心が安らいでその後の日々を過ごしておられたことでしょう。結婚式の後のかなりの期間、美佳さんは日本に残られて看護をして下さった由、新田さんは本当に幸せ者ですね。
春からは兄のメールに揺れ居りき二兎追う闘病の難しさ見えて
お会いしたのは、昨年の夏の終わりに調布での飲み会でご一緒したのが最後になりました。その後も、メール等でお元気と伺っていたし、今年1月に手術を終えて帰宅された後のメールでも「入院期間は少し延びたが、経過は順調」と伺っていたし、加えて新田さんの人並み外れた生命力からして、回復されてにこやかなお顔を見せられると信じきっていました。たまに私に新田さんの近況を尋ねる人があると、「必ず、回復されますよ」と答えていました。それが、2月の終わり頃だったでしょうか、「手術の後が出血して再入院して処置」とメールを頂いて以降は、その後の時折のお見舞いメールへのご返信に前向きの精気が弱まった感じが見えたのも気になって、「春先から、お具合は今ひとつのご様子」という言い方に変えていました。これらの変化から、難病を2つ抱え、一方が安定しているので他方を良くしようとすれば良かった方に微妙に影響する、今までは回復へのバネとなっていた手術という切り札が効かなくなった、もはや打てる手が・・、との思いがメールを書く気分に投影しておられるのかな、と拝察し、心を痛めていました。お別れ会の後で奥様から頂いたメールで「最後は闘うことにへとへとになっていたと思う」と伺って、奥様はそばに居られて誰よりもそれを感じ心を痛めておられたのだろうと、目頭があつくなりました。
我等しばしそれぞれの道を生きんとす兄よ天にて見守り下され
直接お目に掛かることはできなくなりましたが、新田さんへの感謝と思い出を心に残し励みとしながら、私たちは、残された生命をそれぞれに志を持って生きていくことにしたいと思っています。本当に、長らくのご指導・ご鞭撻を有難うございました。どうか、天にて安らかに和みながら、私たちを見守り続けて下さい。合掌。
[05.9.25]
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