私にとっての「経営と情報通信
研究会  高嶋 宏尚



 
職場の上司だった柳下さんに勧められて研究会に参加したのは1985年(昭和60年)のことですから、以来23年もの長い期間、研究会に置いていただいたことになります。あっという間の23年間だったとの感慨も持ちますし、振り返ってみれば、「色んな事があったなぁ」とも思います。研究会を閉じるにあたって思い出される出来事などを幾つか綴ってみます。

1 最初の衝撃

 初めて参加したのは、当時一ツ橋大学におられた今井賢一先生の「ネットワーク組織論」がテーマの時でした。辻さんや亡くなられた新田さんをはじめ、斯界に名の通った人達の中に恐る恐る顔を出したのですが、暖かく受け入れていただいた記憶があります。
1971年(昭和46年)に社会人になって以来15年余も金融機関のシステム部に在籍していましたが、研究会で報告され議論されていることはサッパリ分からず、参加の皆さんが別世界の人のように思えてなりませんでした。アカデミックな様相の研究会の場でありました。「こんなところにオレ居てて良いのかなぁ」と思っていたものでした。

2 神楽坂

 研究会発足当初、年に1回冊子の会報を発行することとしました
[]2代目の編集長も仰せつかりましたが、生来のズボラな性格で編集作業が遅れに遅れ、桜の季節に準備を開始しながら師走の空っ風が吹く時期にやっと発行出来たほどです。当時、辻さんの事務所が神楽坂にあり、編集作業はここで行いました。編集の作業よりも皆で駄弁る時間が多かった気がしますが、これが楽しかった。作業の後は、神楽坂の安い飲食店でダベリングの延長戦に突入することもしばしばでした。

 そんなある夜、ニューテックの山本勣さん、キューピー・マヨネーズの小川菊一郎さんと
3人で、老婆が一人で切り盛りしているおでん屋に行った事があります。寒い日だったせいか客は自分達だけでした。どうしてそんな話になったのかは思い出せませんが、小生が、競走馬のメジロファントム[]に7年もの間入れあげ、大損を重ねた挙句たった一度的中した穴馬券で記念のメダルを作ったことが因縁で、同馬が引退する日には競馬会(JRA)の招待席に招かれる幸運を貰ったことをお話しました。お二人とも、目頭を熱くされながら聞いてくれました。馬券狂の与太話を我がことのように聞いてくれるなど、なんと心根のやさしい人達だろうと思いました。冷たい風の吹く暮れの神楽坂で、心はとても暖かかったことを昨日のことのように思い出します。

3 「カ・マ・スの頃」

 会報が冊子だった頃のことです。会員の皆さんから読み応えのある原稿をたくさん戴きました。中でも、山本勣さんの原稿は、飛び切りと言って良い格調と面白さがありました。静電気防止のためマシンルームを水浸しにし、長靴を履いてシステム運営に勤しんでいたユーザーの話も記憶に鮮やかですし、“ヘーゲルを超えるのは自分しかいない”の強い矜恃を持ちながら赤貧洗うがごとき(こう表現すると山本さんに叱られそうですが)大学生時代が題材の「カ・マ・スの頃」は絶品でした。題名となっている「カ・マ・ス」とはカミュのブランデーのことです。下宿前のバス停での騒音に腹を立て、力ずくでバス停を移動させたら、以後バスがそこで停・発車するようになった話だとか、「カ・マ・スの頃」に書かれた一つ一つの挿話がキラ星のように輝いておりました。余りの出来栄えに、抄録が後年ホームページに掲載されましたが、原典の格調には及ばなかったように思います。これを読む度に、「文章とはこのように書くものだ」と山本さんに教えられているように思うのです。

4 辻さんの来崎

 平成元年から
3年の間は、システムを離れ長崎勤務でした。その折、辻さんが二人のお嬢さんともども来崎されました。当時、辻さんのお嬢さんは大学生と高校生だったと記憶していますが、お二人とも自分がやりたいことをしっかりと持っており、明朗で礼儀正しいお子さん達でした。幼稚園児だった長男を伴って夕食を共にし、ロープウェイで稲佐山に上って長崎の夜景を楽しんでいただきましたが、お嬢さん方が、生意気ざかりで口ばかり達者な息子の相手をずーっとしてくれました。やさしいお嬢さん達であったことも思い出されます。今では、愚息も大学3年生、就職の心配をする頃になっています。あれからたくさんの年月が過ぎたのだ、と今更のように思わずにはいられません。

5 イタリア・オペラ

 研究会は、文字通りに経営、情報通信、システムのテーマが中心でしたが、会員には、業務以外に造詣の深い分野をお持ちの方がたくさん居られました。そこで、「文化シリーズ」と称してそういったテーマでも研究会を行うこととしました。第1回目は、航空会社に勤務された経歴をお持ちの山田靖二さんの「イタリア・オペラ」。名器と言われるワーフデールのスピーカーが、ミレッラ・フレーニの絶唱“私の名前はミミ”などを会場に響かせました。山田さんは航空会社勤務のメリットと時差を最大限に生かし、安い費用で週末に度々イタリアまで本場のオペラを聴きに行かれたとのこと。チケットの入手が大勢の行列で厳しそうだった時、一計を案じ、「日本から、このオペラのためわざわざやってきた」と訴えたところ、順番を譲って貰えて首尾よくチケットを手に入れることが出来たと。これに味を占めて何回か「遥か日本から作戦」を展開されたようですが、ある時「この人、前にも見たことがある」の声が行列の中からあがり、氏の策謀はあえなく潰え去ってしまったとのこと。研究会の場が朗らかな笑いにつつまれました。

6 私の競馬学 

 研究会は、話題提供者として外部から講師を呼ぶこともありますし、会員も交互に講師を務めました。長崎から東京に戻った頃に、辻さんから「文化シリーズで競馬のことを話しませんか」と言っていただきました。システム技術や経営に関することなどではなんら報告材料がありませんが、競馬なら自信があります。若い時分、勤め先をクビになるようなことがあれば、競馬新聞の予想屋なら直ぐにでも出来る、と思っていた位でしたから。「私の競馬学」との題で、初めての話題提供をやらせていただきました。サラブレッドのルーツから、まぐれで的中した穴馬券のことなど、
2時間余り喋りっ放しでした。10人余の例会でしたが、辻さんから「いつもと違うメンバーが参加しました」と報告があり、例会後、本郷の寿司屋で慰労会をしていただきました。その場で、安藤博さんから「サラブレッドにも恋愛感情があるのか」のご質問をいただき、ファンの間では伝説になっていたスピードシンボリとハクセツの話などを申し上げた記憶があります。

7 亡くなられた方々

 研究会が存続した
23年間に、残念にも数名の会員の方が亡くなられました。
 島村隆雄さん。エジプト学の権威で、開発した製品には“ナイル”、“ファラオ”などの名称を付けておられました。辻さんとご一緒して島村さんのオフィスを訪問し、エジプトの話や、「今度開発する製品にもエジプトに因んだ名前をつける」等、楽しそうに語られるのを聞かせていただいたのを覚えていますが、いつ、どんなことでだったのか記憶がおぼろげになってしまっております。遥かな空の彼方で、スフィンクス相手に「朝は四つ足、昼は二本足、夜は・・」と楽しくやっていただいているといいな、と思います。
 勝亦研二さん。何度も研究会でご一緒しました。皆の議論を静かに聞いておられた様子が思い浮かびます。発言は多くはなかったと記憶していますが、時として鋭い指摘や意見を述べられる方でした。ご多忙な社長業の中「ソフトウェアビジネス」を執筆されたので、「世に問う論文を書くのはご苦労が多かったのでは」とお尋ねしたところ、「普段考えていることを書いただけです」と事もなげに仰ったのを記憶しています。勝亦さんの深い見識には感じ入っていながら、勝亦電機製作所のことは恥ずかしながら何も知りませんでした。不躾にも「勝亦電機って何をやっている会社ですか」と尋ねたことがあります。ご本人は僅かに苦笑されただけでしたが、近くに座っていた方が、配電盤の有名なメーカーであることを教えてくれました。その節は、大変失礼いたしました。天国で、お好きな本でも読んで、のんびりとしてくださっているといいな、と思います。
 新田謙治郎さん。研究会を支える大きな力でした。度重なる手術を乗り越え、研究会に参加してくださいましたし、会報の原稿も必ずくださいました。発声が不自由になってからも、ご自分で車を運転し研究会に参加してくださいました。穏やかな風貌の内に鋼の意思をお持ちの紳士でした。新田さんには、後輩が手本とすべきことを身を持って示していただいたと思います。研究会のおかげで、本来ならば出会うことさえ考えられなかった新田さんの峻烈な生き方の一端に触れることが出来ました。これは、自分にとって何物にも替えがたい財産であると思っております。遠い西の彼方で、フォーレのソナタなど聴いていらっしゃるでしょうか。
 大村英堯さんにも、決して長い期間のお付き合いとは言えないものの、本当にお世話になりました。辻さんは「やんちゃ坊主」と評しておられましたが、幾つになっても「やんちゃ坊主」の風情をお持ちで、真っ直ぐな方でした。ベートーヴェンが使用したピアノを弾いたことや、ベルリンの壁を日本に持ち込んだ話など、わくわく胸を躍らせながら聞かせていただいたものです。互いに同じメーカーの機器を持っていたこともあって、
DVDでの録画のことなども色々教えていただきましたし、様々な情報交換もいたしました。大先輩であるのですが、自分にとっては親しみ易い兄貴のような存在でした。幽明境を異にした今でも、「ブルーレイはもう導入済みですか」などと、突然大村さんから電話がかかってきそうな気がしてならないのです。

8 「駒忠」

 研究会は本郷の学士会館で行いました。毎回熱い議論が交わされ、時間が足らなくなるのが常でした。
21時が閉館で、学士会館の係の方からタイムリミットを通告されたことも一再ではありませんでした。時間ギリギリにバタバタと退出することが続き、何回かは踏み越しもしています。学士会館の係の方からは、“しょうが無い人達だ”と思われていたに違いありません。

 話題提供者の慰労も兼ねて、議論の続きは本郷の交差点近くにある飲み屋「駒忠」がお決まりの場所となりました。年に45回の利用に過ぎなかったのですが、「駒忠」には気さくな小母さんがいて、すぐに研究会のメンバーのことを覚えてくれたようです。大の男どもが、システム技術のことや、政治のこと、書評、互いの近況報告など真面目な話を繰り広げているので、学者や研究者の集まりと思っていたのではないでしょうか、我々のことを「お客さん」ではなく、「先生」と呼んでくれましたが、自分が「先生」と呼ばれた時には面映い感じがしました。また、アルコールが駄目なことも覚えていてくれ、2度目に行った時からは黙っていても自分にはウーロン茶を出してくれたものです。庶民的な飲み屋さんですが、「駒忠」は居心地の良い店でした。

9 会を繫ぐもの

 当研究会を我々は「辻さんの研究会」とも呼んでおりました。辻さんとご厚誼の深かった方、辻さんを師と仰ぐ者、辻さんを慕う人の集まりであったにせよ、
23年もの永きに亘り存続して来たのは、辻さんが、「緩やかな紐帯」、「ボランタリーな精神」、「自からが楽しむこと」を徹底されてきたからだと思います。厳しい規則はありません。研究会には、都合つく時、興味あるテーマの時に参加すれば良く、会の運営にしても、自分が楽しめ、ボランティアとして協力できることを出来る時にすれば良い、が貫かれていました。加えて、研究会をはじめとして、「駒忠」での懇談、年報[]、ホームページなど、会員の自己表現の場も提供してくれたからこそ、と思うのです。とは言え、単なるポリシーだけでは上手くいく筈はありません。表看板でありながらも、事務局として、研究会テーマの立案から、講師の手配、会場の予約、会費の徴収、研究会の司会、学士会館への支払、二次会の設営、更には会報の企画・発行、ホームページの編集作業、決算報告などなど、あらゆる雑事もこなしていただいたからこそです。発足当初からかなりの年月は、奥様も研究会場に来られて事務局の役割を担ってくださいました。
 自分もホームページの特集企画などに多少は関わりましたが、積み上げれば人の背丈を遥かに上回る手続やマニュアル類に囲まれて仕事をしてきた身ゆえ、どうしてもルールをきちんと作って会員に守って貰うという方向に行き勝ちになります。その都度、辻さんから、「楽しめなければ続かない、主体性を重んじなければ」とたしなめられたものです。研究会を閉じるに当たっては、感謝などという月並みな言葉では表しきれないほどの恩義を、辻さんと奥様に感じていることを申し上げなければなりません。                             (2007.12.1


[] 会報がホームページになるまで10冊発行した。

[] 父ロンバード、母メジロハリマ、母の父ネヴァービート。197551日北海道浦河生。戦績445勝、主な勝ち鞍「目黒記念」、「東京新聞杯」。獲得賞金285百万円余。生涯3度の骨折から立ち直り、1977年〜1983年の長きに亘り(足掛け7年)競走馬生活を送り、前後数世代の一流馬達と激闘を繰り広げた。天皇賞、有馬記念などの大レースで僅差の2着を3回記録したものの、ついに大レース制覇はならなかった。競走馬引退後は、東京競馬場で先導馬として10年余活躍し、1995年先導馬も引退。JRA日高育成牧場で余生を送ったが、200041211日老衰のため29歳の生涯を閉じる。種牡馬とならなかったため子孫はいないが、弟に「中山大障害」勝ちのメジロジュピター、妹に「セントライト記念」、「中山牝馬ステークス」勝ちのメジロハイネがいる。冊子だったころの会報に「ファントムの思い出」として、同馬に入れ揚げた様子の拙文を載せていただいた。

[] 冊子の会報のことです。


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