研究会との「二人三脚」23年
      辻 淳二



 
私が「経営と情報通信」研究会を始めたのは、IT活用を専門分野とするコンサルティング会社を志向する(株)辻システム計画事務所を立ち上げて一年余りが過ぎた19849月でした。小組織で自立的にやって行くには外界で活躍している多様な人たちとしっかりとネットワークを繋いでおかないと・・・との切なる思いからでした。それから、この度(2007年末)の閉会に至るまでの23年余り、現在68歳の私の人生行路の三分の一に及ぶ長きに渡って当会と道連れで歩んできました。一つの組織への勤続年数が最長でも14年の私にとって、当会は何と、一番長続きした「活動の足場」となったのです。

 従って、その会が閉会、同会のHPが終刊を迎えた今、この間を省みて諸々の感慨があることは言うまでもありません。そこで、当会と私との「二人三脚」の総括を、ここに書き残したいと思います。

 
感謝 

 会の趣旨に賛同した人がボランタリーな意志で会員として参加する、ただそれだけが絆の当会が長続きしたのは、先ず第一に、会が企画/実行する場や行事に参加して盛上げて下さる会員各位が、顔触れが少しずつ変化しながらずっと継続して居て下さったことです。第二に、研究会に先端のテーマで話題提供して下さった講師の方々、幹事会とか作業部会とかに加わり会の活動推進の一端を担って下さった有志会員の方々、諸活動を舞台裏で支える諸業務を手伝って下さった方々(研究会では江良真理子・河野慶子・山本宣子・渡辺紀世美さんと辻栄子さん、当会ホームページでは河野慶子・酒井富士子・米谷共比古さん)、さらには賛助会員となって会の財政を下支えして下さった企業各社の幹部の方々(湖東善明・島村隆雄・高村賢治・富野寿・村本圭一さんと辻)のお力添えを頂けたことです。これらのどれを欠いても、23年間に及ぶ継続はあり得なかったと思っています。そこで、何よりも先ず、全ての皆様に心からの感謝とお礼を申し上げます。

 
思い出

 立上げの時
 もう
23年前のことで、当時についての定かな記憶は残っていません。そこで、立ち上げて一年後に刊行した当会年報の創刊号を取り出してみました。そこに私は、「846月頃に発案し何人かの人に話した所、後押しを約束して下さる方が続いたので、それを力に9月に発足させることができた」と書いていました。発足時の会員数は45人を少し超えていたと記憶していますから、かなり短期間で相当数のご参加を得てスタートできたということです。「あの時の、皆さんの応援はすごかった!」ということですし、それは裏返せば「辻は独立したけど、どこまでやれるのか。ここで応援しなければ、すぐに駄目になってしまうかも」との皆さんの心遣いが、会の立上げに向って結集されたとも読み取れます。いい仲間に恵まれて当会は幸せなスタートを切り、会員相互の緩いけど確かな繋がりが当会を支える土壌となって長続きしたんだなと、懐かしく当時に思いを馳せました。

 当研究会にはお手本があった

 私は、事務所を設立した前後の時期に、独立に当たっての助言者だった飯沼和正さん(科学ジャーナリスト)が主宰して居られた「ブイヤント航空懇談会」という飛行船の実用化を研究するボランタリーな研究会に所属し、飯沼さんの事務局ワークの裏方として文献翻訳や年報作成の手伝いをしていました。飯沼さんは、木村秀政さんや西堀栄三郎さんといった巨人を長に仰ぐ会の事務局長として、自分の思いと会のリーダーや専門家の力との相乗を図りつつ、絶妙に運営しておられました。そして、同会にはその運営のルールブックに当たるしっかりとした「会則」があったのです。
 当会を立ち上げるに当たり、私は飯沼さんの事務局運用ノウハウをお手本にしました。会則は、一部の条項を微調整しただけで、ブイヤントのそれをほとんど丸写ししました。この会則のおかげで、総会で計画と実績を諮り、計画に沿って研究会合をセットし、質疑/討議記録や年報を作成して情報の共有を図るといった一連の活動を迷うことなく進めていくことができたのです。50人規模の会員組織となると、事務局運営が安定していないと、活動を前に進めることは難しかった筈。当会の場合は、お手本があったので、割にスンナリと実活動を軌道に乗せることができました。
 
 みんな若かった
 これもいま読み直して思い出したことですが、会の年報創刊号に私は「当研究会の方向付けについて」と題する小文を書いています。そこに、当会がめざす方向性として、「個(パーソナル・アイデンティティ=PI)を磨く場」「何かをクリエイトできる場」「面倒見のよさを身上とする相互交流の場」の3つを提案していました。このことを会合の場等で表立って議論したという記憶はありませんが、事務局長として少しでも理想に近づく気持で運営する支えにはなっていたと、若かった自分を微笑ましく思い出しました。また、これを実際の会の活動に照らして見て、3番目の「・・・相互交流の場」は、年報を出すワークを共同でやった作業部会で実現できていたことに思い当たりました。有志を募り、メンバーがそれぞれに仕事が終わって参集した夜に編集会議を開いたり、編集長を2年交代で務めたり(初代の山本勣さんから、高嶋宏尚―黒木靖生−河野二郎―鈴木達雄さんとバトンタッチされた)と人間的な交流を深めて行く中で、「参加型で楽しむ」という文化が早期に当会の一隅に形成されていきました。既にワープロが主たる道具として使えるようになっていましたが、カットとかページ番号とかは最後に所定のスペースに糊で貼って、完全原稿に仕上げていました。そのページ貼りをピンセットを使って手分けしてやったのが、今も脳裏に残っています。

 我がオフィスに梁山泊の趣き
 もう一つ忘れ得ないものに、共著を出版する作業部会活動があります。結局、上梓できたのは、
1986年にソフトウエアビジネス(教育社刊)と1989年にソフトウエア進化論NTT出版刊)の2冊。いずれも前半期に集中してその後は息切れしてしまいましたが、部会有志による活動を本として世に出すことができたことは、当会としての大きな成果だったと誇らしく思っています。
 これは、集まった有志が持ち寄った熱意と作業ペースのレベルではとても物にはならないタイプの活動でした。出版社や編著者(ソフトウエア進化論』の時の今井賢一先生)を口説き、本としての大枠をざっくりと定め、期限をテコに中身の議論を前に進めるという、有無を言わせぬ牽引力を備えた安藤博君というリーダーが居て、それに執筆初体験の会員メンバーが懸命に随いて行って、めでたく実現できたものでした。世に問うに値する内容をめざす所から、本の狙いやコアとなる主張、各章の骨子と全体の整合など、摺り合せを多岐に高いレベルで行う必要があり、しばしば当時神楽坂にあった私の事務所に参集し、侃侃諤諤の議論をし、期限が迫ると宿泊施設に泊り込んでの追い込み作業もしました。また、出版の暁には、我が事務所を会場にして出版記念会を開き、当の本を話題に来場者との交流にも努めました。こうした、共同作業による「小なりとも創造」の実体験は、参加メンバーにとってかけがえのないもので、その過程にあった時期の我が事務所はこれぞ梁山泊かと思う賑わいを呈していました。

 このメンバーから、その後に自分の専門分野の本を出す仲間が続出したのは、ここでの活動がスプリングボードになったということでしょう。また、ソフトウエアビジネスの出版記念会の時に、来場された祇園快太さん(当時、野村コンピュータシステム=現NRIの役員)が何と500冊の購入予約を入れて下さり、「一桁書き間違えられたのかな?」とドギマギしたのも、忘れ得ぬ思い出です。このように、当会の活動をさりげなく応援して下さる人も要所に居て下さったのです。

 有難かった親身の励まし
 当会は、最初の
10年間、つまり第10期まではほぼ順調に来て、11期目の途中で約2年半の休止期間がありました。それは、私が本業のコンサルティング事務所のリフォームに踏み切ったのが結果的にうまく行かず、そこからの再起に精力を取られ、当会に力を向けられなかったからでした。この失敗に関連して、少なからぬ会員の方々にご迷惑をお掛けした心理的なダメージもあって、ビジネス環境の再生ができた後も、当会の再開にはいくばくかの逡巡がありました。その迷いを吹っ切らせてくれたのは、それまでの交流を通して心が通じ合っていた会員諸兄の励ましでした。その中で、熱心に再開コールを送って下さった一人にその数年後に急逝なさった勝亦研二さんが居られました。再開日は19981029日で、この時点で当会を発足させて14年が経っていました。

 年報が月報に変身
 再開に当たり何か斬新さを取り入れたかった所へ、ちょうど、日本でもインターネットが普及の時期に入りホームページ
(HP)に活用する流れが到来していました。そこで、極めて直感的に「印刷物だった年報を、インターネット上に開示するHPに変えよう」と決めました。その段階で、河野慶子さんに「私のイメージにある当会HPの骨格部分」の試作を頼み、容易に実現できることを検証して貰えたことが大きな支えになりました。実際に、インターネット上に当会HPを開示したのは994月号からでしたが、その後はひと月も休むことなく月刊での刊行を続けており、それまでは年に一回刊行するのがやっとだった年報の時代からの劇的な変革を目の当たりに体験することとなりました。

 今回の研究会の閉会に伴い、HPも通算106回の刊行で終刊となりました。一番盛り上がったのは、「終刊特集」を含めて13回やった特集企画(この企画は全て高嶋宏尚さんが編集長を担当)、この時に傑作/大作が寄稿されるとアクセス件数も目に見えて伸びたのが、HPならではの手応えとして忘れられない記憶となっています。また、ここまで継続できたのは、ピーク時を過ぎたここ数年間に投稿を絶やさずに続けて下さった方々(黒木靖生・瀬川滋・松本東亜・丸中正量さん)の支えがあってのことでした。

 事務局長交代とその後
 再開後4
〜5年の時が経ち、当会の高齢化と活動の停滞が年と共に目立つようになると、「経営と情報通信」という時代の先端に位置して変化を先取りするイメージを看板とする当会の事務局長として私が力量不足であることを切に感じるようになってきました。そこで相談をし、私の役割を石井真司君に、新田さんの役割を鳥山康見さんにバトンタッチすることとし、第16期から(20037月)当会の運営体制の若返りを行いました。ただ、両氏をもってしても、高齢化して減衰方向にあった当会の活力を上向けるのは難しかったようで、重い荷を肩代わりして報われることの少ない結果となり、申し訳ないことをしたと思っています。

 鬼籍に入られた方々に合掌
 年報を読み直す中で当時の会員名簿をたどって、既にお亡くなりになった方が少なからず居られることにしんみりとした気持になりました。
23年間と言うのは、そういう遭遇も不可避な長さということでもあります。お名前を挙げれば、先に記した勝亦さんに加えて、網谷正夫・石川隆之・大村英尭・小川菊一郎・島村隆雄・新田謙治郎・村本圭一・吉田義順の皆さんです。この内、大村・勝亦・島村・新田さんは、中核会員として当会に余人に代え難い貢献をして頂いた時期から遠からぬタイミングでのご逝去でした。当会を愛し、惜しみなく援護して下さった皆さんのご冥福を謹んでお祈り致します。

 
事務局/編集者冥利

 会からの知的刺激で自分も成長できた
 この稿を書くに当って、当会年報の
10周年記念号に何を書いただろうかと興味を持って、読み直してみました。そこで私は、「事務局長の役得」というタイトルの小文の中で、「(研究会があって)一番得をしたのは私だったのでは?」と書いていました。そして、その理由として、事務局長とは当会の多彩な人的ネットワークの要に位置する役割で、そこに位置して「快適さ」と「小組織の人間が時代と並走して行けるとの自信」をヴィヴィッドに体感できている手応えを挙げていました。これを読んで、この時期には、自分も、知的刺激に満ちたオアシスの特等席に位置して小なりに臆することなく生きて行くための滋養をたっぷりと享受することができていた、つまり「伸び盛りだった」、そして私と当会との切磋琢磨の関係も「相乗の方向にあったんだ」と感慨深いものがありました。

 「心が通じ合った交友関係」の友人が増えた
 私は、ビジネス活動を卒業した今も続いている交友関係において、かってビジネスにおけるお客様だった人と気心が通じ合って長いお付合いになっているパターンがかなり多いことに特長がある人間です。小組織に居た期間が長く組織の看板が利かないから個人の看板で仕事をする、それで自分をさらけ出すことになるから位相の合う人とは長い付き合いになるという傾向も確かにありました。それに加えて、私の場合は、当のお客様が当会の会員になって下さって、当会での接点を通してさらにお互いを知り合い、真の友人関係へと進んで行った人がかなり多いのです。学生時代の同期生との交友においても、当会の発足時に私への応援の気持で会員になってくれた、講師で来てくれた等で接触機会が増え、学生時代を超えて心の繋がった付き合いになれた人が少なくありません。これらの繋がりは、これからのシニアライフを心豊かに過ごす上でも、ポジティブに作用してくれるでしょう。


 兄事する先輩と「会長―事務局長コンビ」を組めた
 私が当会のお手本としたブイヤント航空懇談会では、会長は当時の航空界で重鎮的存在だった木村秀政さんで、同会には名実ともに据わりのいい方でした。当会においても、会長は同じ位ふさわしい人にお願いしたいと思っていました。ただ、現実にお願いに行ける人となると、私がNEC在籍時代から兄事している先輩で、当時既に同社の情報システム事業のキーマンとなっておられた新田謙治郎さんが唯一無二の人でした。およその下準備を整えた所で、「ご迷惑を掛けることはないようにします。会の趣旨に沿って、先端に位置して活発な活動ができるように応援して下さい」と直に懇請しました。当時、新田さんは、独立した直後の私を多くの友人・知人が気に掛けて下さっていた中で、特に親身に心配して下さっていた方の一人でした。「できることなら、何でもイエス」の気持で居られたのでしょう、即応諾して頂けました。

会がスタートしてからの対応も、新田さんならではの見事さでした。形式にとらわれることは一切なく、会の運営は私たちに任せつつ、行事には「自らも参加し楽しむ」という基本姿勢で臨まれ、日程の都合が付く時は好奇心旺盛に参加して盛り上げて下さり、その飾らない真摯な姿勢で同席した会員に親しまれ、「会の求心力」としての役割を果たして下さいました。途中、NECの北米事業担当役員としてボストンに居られた時は、帰国時に忙しい日程をやり繰りしてのIT化やベンチャー企業による事業創造で先行するアメリカ事情のご講演、また帰国後は、難病と闘うさ中の(その方が道中で声を出さなくて済むからと)自ら車を運転しての行事への参加など、当会に心を掛けて下さっていることが同席者の心に残る対応をして下さいました。

私は、NECに入社した直後に、制御用コンピュータを設計開発する仕事で、リーダーとメンバーの関係で新田さんとコンビを組んだことがありました。私にとっては初仕事の時でした。限られた開発予算と人員、進行の遅れのしわ寄せが来た検査工程ではA班・B班に分かれて昼夜を繋ぐシフト勤務を数ヶ月に渡って続けるなど、よろずにギリギリの仕事環境でしたが、「全力で付いて行って、充実感を感じながらの仕事だった」余韻は今も心地良く残っています。その心地良いコンビ関係を、約20年後に、今度は仕事ではなくボランタリーな小組織である当会の場で再現できた私は稀に見る幸せ者。当会は、そういう幸せ体験を私に齎してくれたのです。

昨秋の10月下旬の週末、会員有志が集って東京郊外の東京霊園にある新田さんのお墓に詣で、当会の閉会の報告をしました。墓地内の遮るもののない静かな広がり、墓前からも見えた木々の紅葉、そして都心とは明らかに違う空気の清々しさ。どれもが、穏やかで明るかった新田さんの笑顔に重なって、心が静まりました。どうぞ、安らかにお眠り下さい。

 「ホームページがもたらす感動」に多様に出会えた
 中断後の再開時に広報方法を印刷物から切替えた当会のHPも、幸いに長続きして約9年、計106回の刊行ができました。そして今、終刊の時を迎えた訳ですが、私は、編集長として終始関わってきた立場として、こちらに関しても諸々の感慨を脳裏に留めています。研究会の事務局長とHPの編集長とは、前者は会員・講師・支援スタッフを束ねる、後者は投稿者・読者・支援スタッフを束ねる、との違いはあっても、「束ねる役」という本質においてよく似ています。それ故に兼業がしやすいという面があって、私は結果的に、「かかる労力は半端ではないけど、その分得られるリターンも半端でなく大きい」という束ね役の効用を2倍享受できることになりました。そのリターンの中の、HP編集者の方に特有のものとして、当会HPが登載したコンテンツが関わってインターネットがなければ先ず起こり得ない感動的な出会いに至る場面を目の当たりにした体験が少なからずありました。また、会話している中で当会HPの愛読者であることが分かり、それをキッカケに親しさを深め、長い付き合いに入った友人を少なからず得られたことも嬉しいことでした。

 学んだ「楽しく生きるための知恵」

 「継続は力なり」を信じ、励行するようになった
 私は、生来のタイプは「瘠せ馬の先っ走り」型、つまり、短期的に力を出すことはそこそこできるけど、長期戦になると弱い方でした。ただこれは、体力があってそれに行動が伴っている内はいいけど、中年・高年になったら成果を出すのが難しくなるスタイルでした。そこで、50歳を過ぎた辺りから「継続は力なり」型へのシフトを余儀なくされました。
 実際に、ビジネス活動をリタイアした今、毎週・毎月・毎年の暮しのベースロードとなっている活動に、週ベースのテニス・道路のゴミ掃除・短歌ブログ、月ベースのHP編集・研究会合の主宰、季/年ベースの山歩き/テニス合宿等がありますが、いずれも、近年の数年から十年位に渡って継続させているものばかりです。

 私がこの型を身に付ける上で、当会での事務局長/HP編集長役の体験が随分と大きな力になりました。そしてこれからも、「自分が目一杯手を伸ばせば届く難しさのことに、同好者を求めつつチャレンジし、粘り強く実現/継続させて行く」ことで自分らしい生き方を追い続けていきたいと思っている所です。


 「直感を信じ、即行動する」型を駆使する自信を修得した
 小組織でIT畑のコンサルタント業を目指していた私にとって、時代に半歩か一歩先んじて「先行者優位を長く保てるようにする」ことは極めて大切なことでした。そして、これは後付けでそう思っているのですが、私のキャリアの中で、コンピュータの世界の中でのハードからソフト/サービスへの転進とその後のコンサルタント業への先駆けがうまくできたのは、私の「瘠せ馬の先っ走り」特性が「半歩か一歩先に行く」行動にうまい具合に繋がった結果と言えるようです。若さゆえの恐いもの知らずがいいように作用して、「自分の直感を信じ、即行動した」ことが勝ちに繋がりました。
 今でこそ「これが自分にとっての勝ちパターン」と自覚していますが、当該の時点ではとにかく夢中で動いただけ。実際の所、私がこのパターンの有用性に確信を得て「得意技として使いこなそう」と意識するに至ったのは、当会の大事な節々で「直感、即行動がうまく作動した成功体験」を重ねることができたからです。具体例を挙げれば、当会の立上げに動いた時、当会HPの立上げに動いた時、このどちらもまさに直感、即行動”の所産でした。そして今、当会HPが蓄積したコンテンツを継承する新HPの立上げを呼び掛けていますが、ここでも私の動き方はこの勝ちパターンに拠っているのです。

 結び

 当会の活動はHP終刊号の刊行をもって全て終了となりますが、私の暮らしの中での当会との「二人三脚」は今後も続くと思っています。当会での活動の中から学んだ「ポジティブに生きる知恵」を、上に記したように、これからも使いこなしつつ余生を楽しみたいと思っているのですから。


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